改訂新版 世界大百科事典 「浜松藩」の意味・わかりやすい解説
浜松藩 (はままつはん)
遠江国(静岡県)敷知(ふち)郡浜松に藩庁を置いた譜代中藩。東海地方の要地であり,また徳川家康ゆかりの城として,藩主には代々譜代大名が配置され,しかも諸藩中最も多数の老中を出した。1590年(天正18)堀尾吉晴が浜松城で12万石を領したが,幕藩体制下の藩としては1601年(慶長6)松平(桜井)忠頼が5万石で入封して始まる。その後徳川頼宣の付家老水野重央を経て,19年(元和5)高力忠房が3万石で入封,25年(寛永2)1500石,34年5000石加増。38年に転封したが,この間に城下町の本格的な町割りが行われ,領内検地や新田開発も進んだ。以後松平(大給)氏,太田氏,青山氏,松平(本庄)氏,松平(大河内)氏,松平(本庄)氏,井上氏と転封が激しく,1817年(文化14)には水野忠邦が肥前唐津より6万石で入封した。この間,藩制や城下町の整備,近世村落の確立の上で大きな影響を与えたのは,17世紀後半の太田・青山両氏の時代であった。水野忠邦は老中首座として天保改革を断行したが,領内においても勤倹と節約を説き,農業を奨励し,義倉,社倉と称する貯穀庫を設置して凶年に備え,農学者大蔵永常を招聘(しようへい)した。また人材の登用や藩制機構の合理化を進めるなど藩政改革を行い,さらに異国船に対する海防体制を整備すべく軍事改革に着手し,農兵隊を組織した。しかし他方では,これらの改革や幕閣における政治活動のため膨大な資金を必要とし,領民への過酷な収奪が行われた。そのため領民の不満が爆発し,1845年(弘化2)忠邦が失脚してその子忠経(のち忠精)が山形へ転封し,井上正春が6万石で入封したが,その翌年百姓一揆(打毀)が起こった。井上氏の下で引き続き藩政改革が続けられたが,正直の代に明治維新を迎え,68年(明治1)上総鶴舞へ転封を命ぜられ,翌年移封した。浜松藩は廃藩となり,駿遠両国は徳川家達(いえさと)の駿河府中藩(のち静岡藩)に組み込まれた。
執筆者:本多 隆成
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報