笹原村(読み)ささはらむら

日本歴史地名大系 「笹原村」の解説

笹原村
ささはらむら

[現在地名]河津町笹原

はま村の北西、河津川下流左岸に位置する。篠原村とも記す。永禄元年(一五五八)六月二七日に北条氏は清水小太郎吉広の河津郷手作地三六貫文余を安堵しているが(「北条家朱印状写」正木文書)、この坪付にみえる荒倉あらくら姫宮ひめみや(比宮)は当地の小字として残る。江戸時代ははじめ幕府領、享保一三年(一七二八)掛川藩領となり幕末に至る(韮山町史)。もとは浜村一村であったが、寛永一〇年(一六三三)に分村した(掛川誌稿)元禄郷帳によると高二三四石余。天保三年(一八三二)の覚(笹原区有文書)でも同高。「掛川誌稿」では家数三五・人数一六八。農間に薪炭を江戸へ出荷し、稼ぎとしていた(「子二月覚」笹原区有文書)


笹原村
ささはらむら

[現在地名]郡山市安積町あさかまち日出山ひでのやま

日出山村の南、阿武隈川と笹原川の合流点の北西岸台地に立地。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では日出山村に含まれていた。もと阿武隈川と笹原川の合流点付近にあり篠原しのはら村と称したが、のち日出山村南の台地に移住し、笹原村と改称したという(「日出山村地誌」郡山市立図書館蔵)。正保元年(一六四四)の日出山村年貢皆済目録(福島県史)に「笹原村畠方分」として高一二五石(免五分二厘、大豆納)が記されている。その後日出山村から分村(元禄初年か)、宝暦一〇年(一七六〇)の二本松領郷村高辻帳(同書)に村名がみえ、高一二五石。


笹原村
ささばるむら

[現在地名]多久市南多久町みなみたくまち下多久しもだく 笹原

南はおにはな山山系、東は両子ふたご山山系に挟まれた山間部で、集落の東側に花祭はなまつり川が流れ、北は扇状に水田が広がる。

丹邱邑誌」の享保一二年(一七二七)の「邑内郷村書出」では牟田辺むたべ村に含まれている。同書の「郷村」に「篠原村 南少路・中少路・北少路、慶長年間人家建ト云」とある。現存する田畑帳にみる初見は寛政二年(一七九〇)の笹原村巡見方田畑帳で、笹原村田畑帳(年代不明)によると、田畑畦数一〇町二段八畝一九歩半、地米四九石三斗五升二勺六才となっている。


笹原村
ささはらむら

[現在地名]三木市口吉川町笹原くちよかわちようささはら

中島なかじま村の北西に位置し、美嚢みの川の中流右岸、吉川よかわ谷の中央部付近に立地する。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となるが、寛永九年(一六三二)上知された(「寛政重修諸家譜」など)正保郷帳では幕府領で、田方四三石余・畑方三石余。元禄郷帳では高五一石余。旧高旧領取調帳では中島村の井上河内守領分五一石余とみえるのが当村とみられ、幕末には遠江浜松藩(のち上総鶴舞藩)領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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