谷津村(読み)やつむら

日本歴史地名大系 「谷津村」の解説

谷津村
やつむら

[現在地名]安中市安中二―三丁目

上・下の野尻のじり村の間にある。もと野後のじり郷に属した。慶長一九年(一六一四)井伊直勝が安中に入封、上・下の野尻村と当村の中山道沿いに町立てをした(「安中志」「安中記」ほか)。当村の町並は伝馬てんま町の西に連なる。「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方二〇六石余・畑方二九八石余。江戸後期の御改革組合村高帳でも同高で安中藩領、家数一二〇。この高のほかに元禄郷帳によると長徳ちようとく寺領三七石余、龍昌りゆうしよう寺領一六石余、上野尻村妙光みようこう院領四石余、安楽あんらく寺領六石余、安中宿大泉だいせん寺領一八石余があった。


谷津村
やつむら

[現在地名]小田原市谷津・城山しろやま一―三丁目・さかえ町二―三丁目・おうぎ町一丁目

八幡はちまん山東北の傾斜地、北側を北条氏の小田原城大外郭が囲み、小田原宿の北、西は城内で、小田原宿一九ヵ町とともに小田原府内に含まれる。

「北条記」に「久野口」とあり、「風土記稿」はもとは久野くの口とよび、字岩付台いわつきだいやま神台かみだい豊臣秀吉小田原攻めの際に戦場になった所という。字伊羅窪いらくぼは小田原衆所領役帳に小田原松原明神領「卅三貫二百文 西郡伊羅窪分 西光院」とある。元禄一三年(一七〇〇)高覚帳(秦野市熊沢文書)に村名がみえる。


谷津村
やつむら

[現在地名]河津町谷津

河津川下流右岸に位置する。北の同川対岸は笹原ささはら村・はま村、南は天嶺てんれい(三四九・六メートル)、東は相模灘に面する。河津川の支流谷津川流域および河津川流域を中心に集落がある。谷村とも記す(増訂豆州志稿)。北条氏所領役帳によれば伊豆衆清水小太郎の所領に「河津南禅寺分」三〇貫文と同所のうち開発分一五貫文がみえる。南禅なぜん寺は当地にあった寺。文禄三年(一五九四)検地帳には「河津庄谷津村」とある(増訂豆州志稿)


谷津村
やつむら

[現在地名]緑区椎名崎町しいなざきちよう大膳野町だいぜんのちよう

刈田子かつたご村の北に位置する。椎名下しいなしも郷に属し、谷村とも書く。寛永四年(一六二七)幕府領から生実藩領となり、同五年の小弓領郷帳に村名がみえ、田三七〇石余・畑九五石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高六六六石余。幕末まで同藩領。明暦二年(一六五六)の谷村検地帳(文禄四年の検地帳写か、刈田子町有文書)では田三〇町七反余・畑屋敷一三町五反余。宝暦七年(一七五七)の名寄帳(同文書)では六三名のうち他村百姓三三名。文政三年(一八二〇)年貢皆済目録(同文書)では谷津村として二六六俵余を納めている。元禄一三年上総国古市場ふるいちば(現市原市)いずみ谷の用水をめぐって訴えてきたが、同一五年当村ら下郷が権利を確保した。


谷津村
やつむら

[現在地名]金沢区谷津町・片吹かたぶき

北は富岡とみおか村、東南はしば村・六浦寺前むつらてらのまえ村・町屋まちや村・泥亀新田でいきしんでん村に接し、西は赤井あかい村に連なる。西北には山谷が連なり、富岡村境から谷津川が南流して瀬戸せとの入海に注ぐ。村内を保土ほど(現保土ヶ谷区)から鎌倉および浦賀うらが(現横須賀市)に至る金沢かねさわ道が通る。「金沢文庫古文書」の金沢貞顕書状・剣阿書状などに「金沢谷殿」「かねさはとのゝ谷殿」「やつとの」などの名がしばしば出てくるほか、年未詳の称名寺寺用配分置文(県史二)にも「谷殿御分」として「米五石四斗七升、銭九貫九百四十文」が記されているから、「やつ」は鎌倉時代以来の地名で、ここに金沢氏一族の居宅が営まれていたと考えられる。


谷津村
やつむら

[現在地名]上尾市谷津一―二丁目・谷津・柏座かしわざ一―三丁目・春日かすが一―二丁目・弁財べんざい二丁目・富士見ふじみ一―二丁目・緑丘みどりがおか一丁目・今泉いまいずみ一丁目・西宮下にしみやした一―四丁目・浅間台あさまだい三丁目

柏座村の南にあり、同村と村境が錯雑する。大宮台地上にあり、西はかも川の低湿地。江戸初期には旗本柴田領柏座村の内で、元禄(一六八八―一七〇四)初めまでに分村したとみられる。足立郡大谷おおや領に属する(風土記稿)。元禄七年には中山道上尾宿助郷村となり、勤高一三〇石(「上尾宿并上郷上尾村助郷村高」田中家文書)


谷津村
やつむら

[現在地名]流山市たにきり

桐ヶ谷村のうち、旗本筒井氏の支配地が同村から分れて成立した。以来幕末まで同領。桐ヶ谷村や同じく同村から分村した貝塚かいづか村とは耕地が錯綜していた。天正二〇年(一五九二)の桐ヶ谷之内谷津村水帳(小谷家文書)が残る。種田七右衛門・平石二蔵・佐野新三・新付右三郎を検地役人として行われたこの検地では、反別が田合計九町二反余・畑合計六町一反余、屋敷筆数一七。延宝五年(一六七七)の年貢割付帳(吉野家文書)によると高三六石余、反別は上田一反余・中田七反余・下田二町七反余、中畑三反余・下畑三町二反余、屋敷一反余。ただしこのときは桐ヶ谷村筒井領とあり、分村はこれ以降のことと考えられる。


谷津村
やつむら

[現在地名]松尾町谷津

古和こわ村の北東に位置する。東は遠山とおやま(現横芝町)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一三七石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では古和組に属し、旗本渡辺領一〇三石・同永田領三〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一八三石余、家数二五、幕府領と旗本渡辺・飯田二氏の相給。のち旗本戸塚領が加わる(旧高旧領取調帳)。渡辺氏知行分一三五石余の年貢は享保四年(一七一九)には川欠永引による有高一三三石余に対して五〇石余を納めており、元文四年(一七三九)からは定免制になり、寛延二年(一七四九)以降は三ツ七分に固定化している(加藤家文書)


谷津村
やつむら

[現在地名]寄居町富田とみだ

富田村の枝郷。同村の南に位置し、東は牟礼むれい村。比企丘陵へと続く尾根が西・南・東の三方を囲む谷津で、当地を源流とする吉野よしの川が北東流する。元禄郷帳に富田村枝郷と注記され、高二三石余。寛文三年(一六六三)頃、富田村の旗本杉浦領の一部を割いて分村したが、元禄一一年(一六九八)知行替えで上知され、同年旗本青山領となった(風土記稿・寛政重修諸家譜)。同家の知行は幕末に至るが、改革組合取調書では富田村旗本八家の相給のうちに、青山領二三石余がみえる。明治維新前後に富田村に合併。大日堂に安置された木造大日如来坐像は、天正三年(一五七五)一二月一五日付の胎内墨書銘をもつ。


谷津村
やつむら

[現在地名]野田市谷津・五木新町ごきしんまち七光台ななこうだい春日町かすがちよう日の出町ひのでちよう谷吉やよし

五木村の東に位置する。日光東往還が通り、南には明治四三年(一九一〇)に干拓された座生ざおう沼が広がっていた。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四七三石余、旗本滝川清右衛門領と同久三郎領の相給。「寛政重修諸家譜」によると滝川氏は滝川一益の末で、寛文五年八郎右衛門一俊の代に葛飾かつしか相馬そうま二郡にあった采地のうち三〇〇石を弟久三郎一成に分知したという。


谷津村
やつむら

[現在地名]清水市谷津町一丁目

八木間やぎま村の北、興津おきつ川中流右岸に位置し、身延みのぶ(興津筋)が村内を通る。江戸時代の領主の変遷は吉原よしわら村に同じ。慶長一四年(一六〇九)の検地帳(小泉家文書、以下断りのない限り同文書)によると、高二〇三石余、反別は田九町六反余・畑一三町余。寛文一三年(一六七三)の検地帳では高二二八石余、名請人数三二。


谷津村
やづむら

[現在地名]東庄町谷津

羽計はばかり村の南に位置する。天正一九年(一五九一)八月六日の東庄郡郷枝谷村野帳(谷津区有文書)では田一〇町二反余(うち上田二町五反余)・一〇五石余、畑五町四反余(うち屋敷一町余)・二四石余。名請人九八、うち所持高一石未満五八、屋敷数一九、うち円照えんしよう寺など寺三。同二〇年三月三日の松平家忠知行書立に「谷村之郷」とみえるのが当地と考えられ、高一三四石余が家忠領となっている。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)では「やつ村」として市右衛門尉などが四本を負担している。


谷津村
やづむら

[現在地名]水戸市谷津やつ

水戸城下の西に位置し、東は全隈またぐま村・加倉井かくらい村。阿武隈山系の裾の山丘地帯に接し起伏のある地形をなす。宍戸ししど道が東から西へ、笠間道が北から南へ通る。「水府志料」に「此村古昔大足村より分れしと云。何年のことなるや詳ならず。或云、谷津、三ケ野、牛伏、田島、黒磯、三野輪六村、皆大足より出たりとも云」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「谷津村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android