笹尾村(読み)ささおむら

日本歴史地名大系 「笹尾村」の解説

笹尾村
ささおむら

[現在地名]猪名川町笹尾

栃原とちはら村の西にあり、南東は林田はやした村。貫流する猪名川沿いに丹波への道が通り、南東部で上佐曾利かみさそり(現宝塚市)に通じる道が分岐する。慶長国絵図に「篠原村」とみえ、高一五四石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では六瀬むつせ一〇ヵ村のうちとして「篠尾」とある。寛永四年(一六二七)から摂津麻田藩領になったと考えられ、正保郷帳では同藩領で、高一六四石余。また篠尾として「ササウ」の訓を付す。寛文二年(一六六二)多田ただ銀銅山付とされて幕府領になったと考えられる(「多田銀銅山略記」山内家文書など)


笹尾村
さそおむら

[現在地名]福知山市字篠尾さそお篠尾新町さそおしんまち

福知山城下の南西に位置する。村の南部は古期洪積層の弘法こうぼう川扇状地の末端部で、北部より平均一五メートルほど高い。北部は扇裾部とその前面の低地である。南は正明寺しようみようじ村、東は南岡みなみおか村、北は村・あつ村、西は丘陵を隔てて新庄しんじよ村・半田はんだ村。小字矢見所やけんじよの丘陵に古墳が一〇基ほどあったがほとんど破壊された。一基から朱塗の土師器の高坏が二個出土した。

中世には和久わく庄の地。江戸時代の笹尾村については「丹波志」に「笹尾村 支野ノ端 半合 右同(福知山領) 高六百拾五石」とある。


笹尾村
ささおむら

[現在地名]豊松村笹尾

中平なかだいら村・有木あるぎ村の西に位置し、西は貝原かいばら(天田川)を挟んで油木の宗兼ゆきのむねかね出佐ゆずさ竹川内たけがあち(現油木町)に接し、北は成羽なりわ川の谷を境に小野おの(現油木町)に対する。元和五年(一六一九)備後国知行帳には「篠尾村」(高三六六石余)とみえ、「寛文朱印留」でも篠尾と記されるが、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地頃から笹尾と記されることが多くなった。この時の検地で六〇一石余に増加。福山藩水野氏断絶後幕府領、嘉永六年(一八五三)福山藩領に復帰。

鎮守荒日山あらひやま八幡社の創建は仁治二年(一二四一)、日蓮宗漫延山妙楽みようらく寺が大覚によって開かれたのが文和年間(一三五二―五六)と伝える。


笹尾村
ささおむら

[現在地名]勝山市平泉寺へいせんじ町笹尾

きようヶ岳西側緩傾斜の裾部に位置し、北は平泉寺村赤尾あかお、南は壁倉かべくら村。村名は正保郷帳にみえ、田方一六〇石余・畠方五〇石余。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。家数は、延享三年(一七四六)本百姓五・水呑七(比良野家文書)、寛政九年(一七九七)本百姓一〇・水呑八(勝山市教育委員会蔵文書)、明治初年には本百姓八・水呑一〇(同文書)

当村は村山が少ないため平泉寺山の一部を請山としていたが、山手米未進のため、元文二年(一七三七)四月二二日、改めて山証文をつくり平泉寺へ差出した(平泉寺文書)


笹尾村
ささおむら

[現在地名]彦根市笹尾町

小野おの村・はら村の東に位置する霊仙りようぜん山中の村。村名はかつて笹尾寺と称する寺院があったことによるという(坂田郡志)。慶長高辻帳に篠尾村とみえ高二一八石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元和六年(一六二〇)当村・仏生寺ぶつしようじ村の村民が彦根藩の立山に入り込み、木の根を掘り柴を刈るため山林が荒れるとして、立山への出入りを以後禁止されている(「掟」郷方慶元寛覚書)。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数二一三、うち寺社方二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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