米沢城跡(読み)よねざわじようあと

日本歴史地名大系 「米沢城跡」の解説

米沢城跡
よねざわじようあと

[現在地名]米沢市丸の内一丁目

米沢盆地の南端、まつ(最上川上流)の西側に築かれた平城。もとまつさき(崎)城と称したが、上杉氏入部後舞鶴まいづる城と称した(米府鹿子)。当地は鎌倉時代成島なるしま庄地頭長井氏が領し、暦仁元年(一二三八)米沢に城を築いたという(「米沢事跡考」ほか)。しかし長井氏は鎌倉に居住し、当地には代官を派遣しており、小規模な館であったと考えられる。一四世紀の八〇年代長井氏を滅ぼした伊達宗遠は、米沢を支城とし家臣を置いた。伊達晴宗の時、天文一八年(一五四九)米沢城に居城を移したという(伊達系図)。以後晴宗・輝宗・政宗三代の居城となった。天正一二年(一五八四)輝宗は当城西方の館山たてやま城に隠退し、政宗が米沢城主となった(政宗君治家記録)。同一五年二月七日米沢城の狭隘を感じた政宗が、館山城の拡張を計画し地割を行っており(伊達史料集)、当城の地割整備も相当に推進していたと考えられる。伊達氏時代に城下町としてあら町など六町が成立し、家臣の城下集住もかなり進められていた(山形県史)。同一九年政宗は奥州岩出山いわでやまに移封され、会津に入部した蒲生氏郷領となる。当城には氏郷の将蒲生郷安が配置された。蒲生氏時代には城下町八町と源悦げんえつ小路・家風かふう小路・てら小路の三小路ができている(米沢商業記録)

慶長三年(一五九八)からは会津領一二〇万石の上杉景勝の支城となり、家老直江兼続が入城。このとき城郭は一重堀で、本丸と二の丸があり、正門は北向きであった(旧米沢市史)関ヶ原の合戦で西軍に属した上杉家は、同六年伊達だて信夫しのぶ置賜おきたま三郡三〇万石に減封になり、上杉景勝は米沢に入部した。以後米沢藩は定勝・綱勝・綱憲・吉憲・宗憲・宗房・重定・治憲・治広・斉定・斉憲・茂憲と推移し明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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