須須神社(読み)すずじんじや

日本歴史地名大系 「須須神社」の解説

須須神社
すずじんじや

[現在地名]珠洲市三崎町寺家

寺家じけ集落の北端鎮座。旧県社。現在須須神社と称する場合、一般に高座たかくら宮と金分きんぶん宮の両宮をさすが、須々神社などとも書くこの社号そのものは「延喜式」神名帳を除けば、江戸時代、承応二年(一六五三)書写という「三州式内等旧社記」に「須々神社式内一座、三崎権現と称す、祭神高倉彦神故に高倉宮と称す」とあるのを初見とする。したがって神名帳に記す珠洲郡三座の一つ「すすの神社」に比定する説を疑問視する見方もある。一説には神名帳記載の須須神社は古く須須ヶ嶽(鈴ヶ岳)に海上交通を守護する須須之神を祀る社として成立、のち山岳信仰もみられ、山伏やまぶし山の山名も生じたという。北陸鬼門の鎮守として崇敬された。「三代実録」貞観一五年(八七三)八月四日条に従五位上に昇叙したとみえる「高倉彦神」が現寺家の須須神社で、高座宮の祭神は渡来系氏族高倉氏の氏神と推定され、隣接の金分宮は室町初期に起こった修験系の神社であろうという(珠洲市史)。室町時代には高座宮・金分宮を併せて珠々権現とも称し、近世には三崎みさき権現とも記されていた。別当は天台系の高勝こうしよう寺。祭神は高座宮に高倉彦神のほか天津彦彦火瓊瓊杵命、金分宮に高倉神之后神や木花開耶姫などがあげられる。

万治三年(一六六〇)の須須神社縁起(須須神社文書、以下とくに断らない限り同文書)によれば、崇神天皇のときに創建され、欽明天皇二年・養老元年(七一七)・康平四年(一〇六一)に再建されたと伝え、文政七年(一八二四)の社号帳では初め山伏山に鎮座していたが、天平勝宝年間(七四九―七五七)に現在地へ移ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「須須神社」の意味・わかりやすい解説

須須神社
すずじんじゃ

石川県珠洲(すず)市三崎町寺家(じけ)に鎮座。高座(倉)(たかくら)宮と金分(かなわけ)宮の二宮からなる。前者は天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、後者は木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)を祀(まつ)る。崇神(すじん)天皇の代に山伏山(鈴ヶ嶽(だけ))に創祀(そうし)されたと伝える。『三代実録(さんだいじつろく)』の貞観(じょうがん)15年(873)8月4日の条に、能登(のと)国従(じゅ)五位下高倉彦神(たかくらひこのかみ)が従五位上を授けられた記事がみえ、当社の高座宮のことといわれる。また『延喜式(えんぎしき)』神名帳の能登国珠洲郡に登載される「湏湏神社」は当社にあたるという。1403年(応永10)穴水(あなみず)城主の長谷部頼連(はせべらいれん)は田地寄進。さらに1584年(天正12)加賀藩主前田利家(としいえ)が田地を寄進して以後、歴代藩主の崇敬は厚かった。1895年(明治28)県社に列せられた。例祭9月14日。社宝に木造男神像5躯(く)(国指定重要文化財)を蔵している。社叢(しゃそう)も国指定の天然記念物。

三橋 健]

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