糸井庄(読み)いといのしよう

日本歴史地名大系 「糸井庄」の解説

糸井庄
いといのしよう

延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の城下しきのしも東郷では南北両庄に分れている。

南庄は本願田(官省符荘か)雑役免田からなる興福寺領で、「糸井南庄十八町三反百山辺郡十二条一里十二坪号、糸井庄領、永尊領坪付也」とある。うち不輸免田畠一七町二反大の内訳条里(括弧内は坪数)は、本願田一〇町が一四条三里(一)、一五条二里(四)・三里(八)、一六条一里(一)・二里(七)、一七条三里(一)、一八条二里(一)・三里(一)・四里(一)、大弐御位田二町が一五条三里(一)、一六条二里(一)、大蔵省田一町七反小が一五条三里(一)、一六条二里(一)、福田院田二反が一六条三里(一)、蓮城寺田四反半が一六条四里(一)、大后寺田三反三〇〇歩が一七条三里(一)、法興院田五反が一七条三里(一)、勧学院田一町が一八条二里(一)、左馬寮田一町が一八条三里(一)である。


糸井庄
いといのしよう

糸井川流域にあった庄園。庄名は古代の糸井郷(和名抄)に由来する。白河天皇が京都東郊岡崎おかざき(現京都市左京区)に建立した法勝ほつしよう寺領で、皇室領の一。弘安八年(一二八五)但馬国太田文には「糸井庄 七十四町二反三百分」とみえ、「法勝寺領 領家押小路中納言家」「公文小谷太郎家茂 御家人」「惣追捕使善法橋栄能」の注記があり、庄田の内訳は、仏神田八町八反三〇〇歩、人給五町四反、定田六〇町である。領家の押小路中納言は三条実重。公文の小谷家茂は国御家人で、朝来郡西院の下司も兼ねている。領家三条実重の曾孫公忠の日記「後愚昧記貞治五年(一三六六)一一月九日条に、次のように記されている。「自糸井飛脚到来、武家両使去二日打渡之了。又当庄下司・惣追捕使并名々等、自守護方(長駿河守)付給人、濫妨之。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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