鎌倉時代に設置された軍事検察官のひとつ。当時は〈そうついぶくし〉と呼ばれることが多かった。平安時代に惣追捕使がすでに存在していたか否かはまだ確証がない。史料上に確実に登場するのは源平内乱の時期であり,源頼朝は平家追討中にその手立てとして西国諸国に惣追捕使を独自の判断で設置していたが,追討完了後の1185年(文治1)11月いわゆる文治勅許のときに,地頭職とともに,義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求め,承認された。この惣追捕使の職務は少なくとも表向きは謀反人たる義経とその党類を捜索・逮捕することであり,またそれに必要な物資の調達や諸国庄公役人への命令なども随伴していたが,その背後で頼朝側がそれを通して諸国武士一般を軍事的に編成する体制をつくろうとしていたことは否定できない。
このとき設置された惣追捕使には,国ごとに一員ずつ置かれたものと,荘園単位に置かれたものの2種類あるが,前者は平家追討段階から存在し同時期にも同職務内容をもって活躍している守護(または守護人)と同一実態であるところから,おそらく平安時代末期いらいの諸国鎮護の前史をもって登場した守護人を,朝敵追討の公職として組織立て朝廷に認可させるための指称であったと考えられる(なお惣追捕使と守護を別種の職と見る見解もあることについては,〈守護〉の項目参照)。他方後者は同じ目的を遂行するために,国衙不入の権などを持った特殊な荘園に別途に設置されたものと解される。
このように設置された惣追捕使は,義経追討が完了する1189年(文治5)をもって少なくとも公的設置の根拠を失う。しかし,上述のように幕府はこの惣追捕使のうちとくに国(くに)惣追捕使に関し,これを諸国武士統合の国ごとの手立てとして存続を希求したうえ,朝廷側からみても謀反人の大規模な発生が予想される当時の社会状況ゆえに,旧朝廷・国衙系の軍事検察組織よりもはるかに有効な惣追捕使(守護)を根絶することはできず,その結果朝幕の交渉を経て御家人のみを編成しての謀反予防と平時の治安に職務内容を限定し,そのようなものとして存続することとなった。しかし惣追捕使という指称は平時においてはものものしい。それゆえ,国惣追捕使の称は制度的に撤廃された形跡はなく,事実その後も用いられたこともあるが,全体としては平時の鎮護にふさわしい守護,守護人,守護職,守護奉行人などの名をもって呼ばれることとなった。なお荘園に設置された惣追捕使については,荘園領主の判断しだいで存否を決めうるものであったから,義経追討完了後も朝幕間の問題とはならず,個々のケースで存否は処理されていったようであり,鎌倉・室町時代を通して惣追捕使と称する荘園検察官が特定荘園に存続していることからすると,これらはそもそも荘園単位の存在であるゆえにその指称をもって国家的追討を意識されることがありえず,その結果かえって惣追捕使のまま残ったものと判断される。
→守護 →追捕使
執筆者:義江 彰夫
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惣追捕使とも書く。(1)鎌倉幕府の地方官職で、守護の別称。(2)平安時代末に出現する軍事・警察的職掌。史料上の初見は1183年(寿永2)で、追捕使との違いは明確ではないが、追捕使が公領にしか権限をもたないのに対し、源平内乱期に公領・荘園(しょうえん)を問わずに軍事・警察権を行使する必要ができたために設置されたものらしい。それが官職化されたものが鎌倉幕府の守護(総追捕使)だが、一方で総追捕使という名称も長く荘園内の職として残った。
[井上満郎]
「そうついぶくし」とも。惣追捕使とも。源平争乱期~鎌倉幕府草創期,国あるいは荘園におかれた軍事指揮官。1184年(元暦元)平氏追討の宣旨をうけた源頼朝は,畿内近国に適宜,総追捕使を任命,播磨・美作両国の梶原景時,備前・備中・備後諸国の土肥実平,伊賀国の大内惟義などである。平氏滅亡後停止されることになったが,85年(文治元)末,源義経・同行家の追討を名目に,あらためて設置を朝廷に認めさせた。行家・義経滅亡後は,もっぱら一国ごとに治安警察一般,国内御家人の統率にあたる者として,それまでも異称としてあった守護人・守護とよばれるようになり,鎌倉幕府の全国的・統一的な職制となっていく。
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…また腫物(はれもの)の一種に押領使という異称があったが,そのもっていた権力が強すぎたので忌み嫌われ,腫物の義になったものと思われる。なお,鎌倉幕府の守護(惣追捕使)は押領使が発展したものとも考えられている。【井上 満郎】。…
…比企朝宗は鎌倉幕府の守護制度が整備されるなかで,北陸道諸国の守護として活躍するようになるところからみて,この鎌倉殿勧農使がある意味では鎌倉幕府の守護制度の源流をなすとも考えられる。しかしながら,85年(文治1)11月におかれた鎌倉幕府の国地頭(ないし惣追捕使)が,勧農使の伝統をうけついで公然と国務に干渉していたにもかかわらず,翌年3月,北条時政が自分のもっている7ヵ国の地頭職を辞退して惣追捕使になると後白河法皇に申し出て,諸国の勧農から手をひいている。またそれをうけて,同年6月になると,今度は頼朝の要請によって,西国37ヵ国を対象として,武士の濫行を停止せよという後白河法皇の院宣が出された。…
…
[鎌倉幕府の守護制度]
鎌倉幕府の守護制度は,この前史のうえに12世紀の80‐90年代すなわち幕府草創の時代に成立する。この守護制度成立については古くから諸説が分かれ,(1)指称と成立時期にかんし,惣追捕使と守護は同一実体で,ともに1185年(文治1)勅許で成立したと見る説,85年勅許では惣追捕使として登場し,建久年間(1190‐99)に守護に切り換えられたとする説などがあり,(2)設置目的や範囲についても,(1)との関連で,源義経追討と恒久的な諸国治安維持一般のいずれを重視するか,また特定地域であるか全国的であるかなど,学説は一定せず,さらに(3)職務内容についても,大犯(だいぼん)三箇条,兵粮米徴集,庄公下職進退などをめぐり,(1)(2)と絡みながら種々の解釈が提出されている。いまこれらの諸見解の対立を全面的に解決することは不可能であるが,諸研究で確実になった点を基礎に若干の私見を加えて見通すと,すでに頼朝は1180年(治承4)の挙兵直後から,おそらく前述の国守護人を土台として,守護人を平家追討後の国々に反逆予防・治安のために承認ないし新置していたが,平家追討完了後の85年11月,この一国を軍事的に統率して鎮護する守護人を,惣追捕使という公式指称で,朝敵となった義経を討滅する手段という大義名分をもって,地頭職とだきあわせで全国的に設置することを朝廷にせまり,勅許された。…
…徐々に各国に設けられていくが,同様の軍事官職である押領使(おうりようし)の任命地域との違いや職務権限の差などは明らかでない。鎌倉幕府は1185年(文治1)に惣追捕使(守護)を全国に任命するが,これはその名のとおり追捕使のもつ軍事的権限を吸収して武家政権の地方行政組織としたものである。なお,荘園にも追捕使が荘官として設置された場合があって,荘園内部での治安維持などにあたったと思われる。…
※「総追捕使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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