細田源吉(読み)ホソダ ゲンキチ

20世紀日本人名事典 「細田源吉」の解説

細田 源吉
ホソダ ゲンキチ

大正・昭和期の小説家



生年
明治24(1891)年6月1日

没年
昭和49(1974)年8月9日

出生地
東京

出身地
埼玉県

学歴〔年〕
早稲田大学文学部英文科〔大正4年〕卒

経歴
日本橋の洋服反物問屋に3年間丁稚奉公をし、その後苦学しながら大学へ進む。卒業後春陽堂に入社、「新小説」「中央文学」の編集に携わる。その間小説を執筆し、大正7年「空骸」、8年「死を恃んで行く女」を発表して文壇に登場。9年「死を恃む女」を刊行し、以後「罪に立つ」などを発表。13年「未亡人」、14年「本心」を刊行しプロレタリア作家へ成長して行く。15年「文芸行動」を創刊。プロレタリア文学作家としては「誘惑」「この人達の上に」「陰謀」などの作品がある。昭和7年検挙されて転向するが、戦後は執筆をせず府中刑務所の篤志面接委員を務めた。また少年時代から俳句に親しみ、戦後の26年つゆ草句会を興して主宰句集に「松柏」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「細田源吉」の意味・わかりやすい解説

細田源吉
ほそだげんきち
(1891―1974)

小説家。東京に生まれる。早稲田(わせだ)大学英文科卒業。春陽堂退社後、1919年(大正8)『死を恃(たの)んで行く女』を発表して注目され、『罪に立つ』(1922)、『未亡人』『はたち前』(ともに1924)などの自伝的作品を続々と刊行、作家としての地位を確立した。その後プロレタリア作家へと転身し、『誘惑』(1927)、『巷路(こうろ)過程』『陰謀』(ともに1930)その他の作品を発表した。32年(昭和7)の転向後は歴史小説や宗教小説に傾斜、第二次世界大戦後は府中刑務所の篤志面接委員なども務めた。

[大塚 博]

『『現代日本文学全集85 大正小説集』(1957・筑摩書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細田源吉」の解説

細田源吉 ほそだ-げんきち

1891-1974 大正-昭和時代前期の小説家。
明治24年6月1日生まれ。大正11年刊行の自伝的長編「罪に立つ」などでみとめられる。プロレタリア作家として「誘惑」「陰謀」などを発表したが,のち転向。戦後は執筆をやめ,府中刑務所の篤志面接委員をつとめた。昭和49年8月9日死去。83歳。東京出身。早大卒。

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367日誕生日大事典 「細田源吉」の解説

細田 源吉 (ほそだ げんきち)

生年月日:1891年6月1日
大正時代;昭和時代の小説家
1974年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の細田源吉の言及

【プロレタリア文学】より

…文戦派)はしだいに色あせて見えるようになり,やがては実力派だった平林たい子,黒島伝治,細田民樹(1892‐1972)らが脱退し,その多くはナップに参加した。なお,明治・大正以来の文壇作家で大正末年から社会主義運動ないしプロレタリア文学運動に参加した作家として,藤森成吉,江口渙(きよし)(1887‐1975),江馬修(ながし)(1889‐1975),宮本百合子,細田民樹,細田源吉(1891‐1974)らがおり,彼らも結局はすべてナップに参加した。ほかに〈同伴者作家〉として広津和郎,野上弥生子,山本有三,芹沢光治良らがいた。…

※「細田源吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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