日本大百科全書(ニッポニカ) 「終戦反対事件」の意味・わかりやすい解説
終戦反対事件
しゅうせんはんたいじけん
1945年(昭和20)8月14日の深夜から翌日早暁にかけて、陸軍の中堅幹部が近衛(このえ)師団の一部兵力を使って宮城(きゅうじょう)に侵入し、昭和天皇の終戦の詔書の放送を阻止して、抗戦を継続させようと企てた事件。宮城事件とも、八・一五事件ともいわれる。陸軍省軍務局の課員(当時、参謀本部第四部の参謀を兼任)のなかには、東京帝国大学の国史学の教授平泉澄(ひらいずみきよし)の教えを受けた熱烈な皇国史観の保持者が多く、ポツダム宣言受諾の動きを国体護持のうえから危険なものだとみなしていた。彼らは8月12、13日ごろから、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相を擁してクーデターを計画したが、陸相の賛成を得られなかったので、近衛師団の一部の参謀と謀って、宮城の占領を計画し、15日朝2時、森赳(たけし)近衛師団長を殺害して、にせの師団命令を出し、近衛師団の一部を出動させて宮城に侵入した。しかし出動部隊がにせ命令であるのを察知したのと、15日未明田中静壹(せいいち)東部軍司令官が鎮圧に駆けつけたため、クーデターは失敗した。また一部の右翼や軍人が鈴木貫太郎首相、木戸幸一(こういち)内大臣などの私邸を襲撃したが、いずれも目的を達しなかった。
[藤原 彰]