幕末から明治初年に活躍した土佐(高知県)の町絵師。通称を金蔵といい、絵師金蔵という意味の絵金の名で親しまれた。姓は木村、のち弘瀬(ひろせ)、一時林を名のり、名は柳栄または美高、洞意(どうい)、友竹斎、雀翁(じゃくおう)などと号した。土佐の城下新市町の髪結いの子として生まれ、幼少から画業に志し、藩のお抱え絵師池添美雅(いけぞえよしまさ)に師事して画才を認められた。
17歳のとき、藩主山内容堂の息女徳姫の供に加わり江戸へ出、幕府の御用絵師狩野洞白(かのうどうはく)について狩野派の画法を習得、同時に末期浮世絵の退廃的表現にも深く影響された。3年後に帰国して藩のお抱え絵師に取り立てられるが、数年後にスキャンダル(一説に狩野探幽(たんゆう)らの偽作を行うという)によりその地位を失い、以後、在野の画工としての絵金時代に入る。代表作として、夏の宵宮(よいみや)に神社の境内や参道を飾った台提灯絵(だいちょうちんえ)がある。ほぼ1間(約1.8メートル)四方の二枚折り屏風(びょうぶ)仕立てに泥絵の具で描かれた歌舞伎(かぶき)芝居絵だが、奔放な筆致と原色をばらまいたような鮮烈な彩色によって、激情の表出とおおらかな戯画化をあわせ果たした独得の絵画世界を創出している。
[小林 忠]
『広末保・藤村欣市郎著『絵金』(1968・未来社)』
幕末から明治初年に活躍した土佐(高知県)の町絵師。通称金蔵,絵金は絵師金蔵の略称。本名は弘瀬洞意。友竹斎雀翁と号した。高知城下新市町の髪結の家に生まれたが,画道に志し,藩のお抱絵師池添美雅に師事して画才を認められた。1829年(文政12)江戸に出て狩野洞白に学び,狩野派の画法を習得して洞意の画名を拝領,32年(天保3)帰国して藩のお抱絵師に取り立てられる。数年後不始末をおかしてその地位を失い,以後没年までが官を離れた在野の画工としての絵金時代となる。代表作は夏の宵宮に飾るための台提灯絵(だいちようちんえ)で,奔放な筆致と鮮烈な色彩によるその歌舞伎芝居絵は,南国土着の民衆の激情をおおらかに発散させた独特の絵画世界となっている。
執筆者:小林 忠
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(佐藤道信)
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… そうした中で,西洋画の遠近法を採り入れた〈浮絵〉の手法により劇場の内部を統一的に描いた奥村政信(1686‐1764)や,三都の芝居町の楽屋内の模様をそれぞれ大判三枚続きの大画面に精細に報告した歌川国貞(1786‐1864),あるいは土壁への釘による落書になぞらえて滑稽な役者似顔の戯画を生んだ歌川国芳(1797‐1861)らの,異色の画業が特筆されるであろう。さらには,幕末の土佐に出て,奔放な筆致と原色的な色彩を用い,地方土着の激情を台提灯絵(だいちようちんえ)の芝居絵に発散させた絵金(1812‐76)の活躍も注目に価するものがある。役者絵【小林 忠】。…
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