江戸初期の画家で江戸狩野の確立者。狩野孝信の長男で,永徳の孫にあたる。幼名采女(うねめ),名は守信。1635年(寛永12)に剃髪して探幽と号した。時の政権の動きに機敏に対応して勢力を伸ばしてきた狩野派は,徳川幕府の成立とともに江戸への進出を図り,幕府の要請に従ってその居城修築に必要な絵師を江戸へ送り込んだ。探幽もその一人として父と共に京都から江戸へ下り,1617年(元和3)幕府御用絵師となって父の跡目を弟尚信に譲り,21年には鍛冶橋門外に屋敷を拝領,23年京都の狩野宗家を弟安信に継がせ,自らは別家して鍛冶橋狩野家をおこす。探幽は,江戸幕府の安定にすばやく対応し,弟たちを相ついで江戸へ下らせ幕府の画事に携わり,幕藩体制の中で御用絵師としての地位を固め,自らを中心とした江戸狩野を確立していった。38年(寛永15)には幕府への多年の功績により法眼に,さらに62年(寛文2)には画家として最高位の法印に叙された。二条城二の丸障壁画《松鷹図》(1626)では,祖父永徳の豪放な巨木表現をさらに大規模に展開すべく意欲を示しているが,そこにはすでに形式の固化がうかがわれる。以後,1634年制作の名古屋城上洛殿障壁画あたりを境に筆数を減じ,余白の余韻を生かした瀟洒(しようしや)で淡白な画風へと転ずる。大徳寺本坊障壁画《山水図》(1641)はその完成された姿である。それは,幕藩体制整備の時勢における武士階級の生活感情に即したものといえる。探幽は,画題的にも儒教精神に適合したものを取り入れたため,地方の諸大名もこぞって狩野派の絵師を招き,狩野派が全国的に繁栄することになった。一方,探幽は《若衆観楓図》のような風俗画にも筆を染めているが,その画風は,やまと絵学習で得た細密描写と漢画の和様化をたくみに融合したものである。探幽の古画学習を裏づけるものに《探幽縮図》があり,やまと絵,漢画,中国画の多彩な分野を模写している。すぐれた写生画を含む膨大な数の縮図の美術史的意義は近年再評価されつつある。しかし,探幽の意図とはうらはらに,《縮図》が江戸狩野派の粉本主義を助長したことも否めない。探幽が江戸絵画史上に残した大きな功績のひとつとして,文化的に未開発な江戸の地に絵画文化の母胎を移植したことがあげられる。そこから,やがて浮世絵に代表される江戸庶民芸術が生まれてくる。
執筆者:安村 敏信
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(安村敏信)
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桃山後期から江戸初期の画家。狩野孝信(たかのぶ)の長子として京都に生まれる。次弟に尚信(なおのぶ)、末弟に安信があった。名を守信、初め采女(うねめ)と称した。幼くして画才を発揮し、13歳のとき、徳川秀忠(ひでただ)に謁見、『海棠(かいどう)に猫』の席画を描き、永徳の再来と賞賛される。1617年(元和3)幕府の御用絵師となり、その4年後には、江戸城鍛冶橋(かじばし)門外に屋敷と所領200石を拝領、鍛冶橋狩野家を開いた。宗家の貞信(さだのぶ)の没後は名実ともに狩野家の中心的存在となり、1626年(寛永3)の二条城行幸殿の障壁画(しょうへきが)制作では一門を率いて活躍した。その後、名古屋城、江戸城、京都御所、日光東照宮などの障壁画を制作、幕府の重要な絵事に健筆を振るった。1635年入道して探幽と号し、3年後には法眼(ほうげん)に、ついで1662年(寛文2)には宮内卿(くないきょう)法印にまで叙せられる。その画歴は、(1)采女時代、(2)剃髪(ていはつ)後の探幽斎時代、(3)法印叙任前後より晩年に至る、画面に揮毫(きごう)時の年齢を書き入れた「行年書き」時代、に分かれる。探幽の余白を生かした瀟洒(しょうしゃ)で端正な新様式は、江戸狩野様式と称せられ、以後の狩野派の規範として受け継がれていった。また彼は、幕府の権力機構に相応して一門の組織整備にも腐心し、奥絵師を頂点に、表絵師、諸大名のお抱え絵師、町狩野と広範な裾野(すその)を有したヒエラルキー(階層組織)をつくりあげ、幕府内での狩野派の地位を不動のものとした。延宝(えんぽう)2年10月7日没。法名玄徳院日道、池上本門寺に葬る。代表作に名古屋城上洛(じょうらく)殿、二条城二の丸御殿障壁画、『鵜飼図屏風(うかいびょうぶ)』(東京・大倉集古館)、『東照宮縁起絵巻』(日光東照宮)などがある。
[榊原 悟]
『武田恒夫著『日本美術絵画全集15 狩野探幽』(1980・集英社)』
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1602.1.14~74.10.7
江戸前期の狩野派の画家。孝信(たかのぶ)の長男。京都生れ。江戸に下り,1617年(元和3)幕府御用絵師として鍛冶橋(かじばし)門外に屋敷を拝領し,鍛冶橋狩野家の祖となった。38年(寛永15)法眼(ほうげん),62年(寛文2)法印叙任。実質的な狩野門の統率者として数々の幕府御用を勤めた。室町水墨画・大和絵など幅広く吸収しつつ,幕藩体制の整備に同調するように,桃山時代の豪壮な大画様式を優美・知的な様式へと一変させた。代表作は,二条城二の丸御殿・名古屋城上洛殿・大徳寺本坊方丈など数多くの障壁画や「探幽縮図」とよばれる古画の模写・写生帳など。探幽の画風は,形式化しつつ江戸狩野様式として江戸時代を通じて継承された。
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[桃山様式の終結と転換]
確立したばかりの徳川幕藩体制は,その豊かな財力にものをいわせ,権威の荘厳のため,これまでに増して大規模な城郭や霊廟を営んだ。二条城二の丸御殿(1624‐26)はその代表的な遺構の一つであり,内部を彩る狩野探幽一門の障壁画の巨大な松の枝ぶりが長押(なげし)の上にまで延びて金地に映える壮観は,安土城以来の武将の理想の実現といってよい。だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。…
…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…
※「狩野探幽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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