総社町(読み)そうじやまち

日本歴史地名大系 「総社町」の解説

総社町
そうじやまち

[現在地名]前橋市総社町・総社町総社・問屋町とんやまち元総社町もとそうじやまち

利根川右岸の広い地域を占め、北は植野うえの村・高井たかい村、西は北原きたはら村・東国分ひがしこくぶ(現群馬郡群馬町)、南は元総社もとそうじや村・大友おおども村・大渡おおわたり村。総社古墳群の中心地であり、また古代以来上野国府に隣接する地として、古くから開けていたと思われる。古くは「惣社」と記されることが多い。中世以前の総社・府中ふちゆうという場合、現在の元総社町を中心とする地域をさす場合が多い。南北朝期以後守護代長尾氏の支配拠点となる。総社は旧総社神社(現元総社町宮鍋)周辺の長尾氏居館(蒼海城)をさす場合と、大友郷などを含む総社領を示す場合とがある。鎌倉時代、上野府中は守護安達氏に伝えられていた(弘安七年一一月二〇日「関東下知状」毛利文書)。南北朝内乱期、上野守護山内上杉氏の守護代長尾景忠は上野支配を担当し、その子孫は総社・白井・鎌倉(足利・館林)の三長尾家に分れた。以後、総社長尾氏は忠政・憲明・忠景・顕忠・顕方と代々主家を支えたが、顕景の時に北条氏綱に内通したため家宰の地位を追われ、大永七年(一五二七)には箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)の長野左衛門大夫方斉が惣社要害の乗取りを企てたとして援助を越後の長尾為景に要請している(一二月一六日「長尾景誠書状」上杉家文書)。上杉謙信の関東進出直後に作成された永禄四年(一五六一)の関東幕注文(同文書)によると、総社衆は長尾氏を中心に安中・小幡・多胡・大類など碓氷うすい川・かぶら川一帯に分布している。永禄八年武田信玄は上野国に進出して総社一帯を治め、同一〇年一一月二五日には小幡孫十郎に「総社之内大友之郷弐百貫」を預けおいている(「武田家朱印状」西光院文書)。また同じ武田氏支配時代に、総社領内において井田(地侍か)と百姓の間で相論が起こり、春先の勧農期にもかかわらず百姓側が耕作放棄を行い、荒田になるという事件が起こっている(年未詳四月一〇日「武田信玄条書」大沢二朗氏所蔵文書)。天正一〇年(一五八二)の武田氏滅亡の後、厩橋(前橋)城主北条きたじよう高広が上杉景勝方に転じて総社領を支配し、富里佐渡守、後閑下野守に各々総社内二五貫文の地を宛行った(七月一〇日北条高広安堵状写「上毛伝説雑記」所収)

天正一八年の徳川家康関東入国ののちは、総社一万石は諏訪頼忠に給付され(「関東入部知行割」諏訪文書)、頼忠は蒼海おうみ城に入った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報