義太夫節の大夫と三味線(読み)ぎだゆうぶしのたゆうとしゃみせん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「義太夫節の大夫と三味線」の意味・わかりやすい解説

義太夫節の大夫と三味線
ぎだゆうぶしのたゆうとしゃみせん

義太夫節の大夫と三味線の間には、密接な、切っても切れぬ関係がある。その一つに、相三味線(あいじゃみせん)(合三味線)という慣習がある。これは、特定の大夫と組んで、けっしてほかの大夫を弾かない三味線弾きのことをいう。近年、コンビが決まったときには、大夫と三味線の間に杯(さかずき)を交わす習慣がある。4世竹本津大夫(つだゆう)と竹沢団七(だんしち)の場合がそうで、1981年(昭和56)に津大夫の相三味線となった団七は、以後、津大夫の了解がなければ、ほかの大夫を弾けないのである。

 昭和中期までの代表的な例を示すと、2世豊竹古靭太夫(とよたけこうつぼだゆう)(後の豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう))と4世鶴沢清六(つるざわせいろく)は、1923年(大正12)から26年間、名コンビをうたわれた。また古靭太夫の愛弟子(まなでし)であった8世竹本綱大夫(つなたゆう)は、1936年(昭和11)に10世竹沢弥七(やしち)と組んで以来、68年の没時まで、30年以上も弥七と離れることがなかった。このように相三味線は、夫婦のごとく長く連れ添うのが理想といえよう。6世竹本土佐太夫が引退したのは1937年であるが、そのとき相三味線の7世野沢吉兵衛(きちべえ)もともに引退した。土佐太夫は41年に他界するが、吉兵衛はその一周忌を無事に済ませたのち、この世を去って行く。偶然のことであろうが、「三味線弾きは女房役」という格言を端的に示していよう。

 とにかく舞台生活をともにする相三味線は、その日その日の大夫の調子が手にとるようにわかるものである。かりに調子が悪ければ、三味線は手順を変えて、大夫の語りやすいように弾く。また、一くぎりに五つのフシがある場合、大夫が三つしか語れないとすると、三味線は頭を働かせて、浄瑠璃(じょうるり)全体をいっそう盛り上げるように努めなければならない。気心の通じ合った者同士でこそ初めて臨機応変の処置がとれるものである。とはいえ、大夫と三味線とがなれあいになると、舞台はつまらなくなる。絶えず火花を散らして、各自が芸で争わなければならない。このあたりの呼吸が相三味線としていちばんむずかしい。

 古靭太夫や土佐太夫が活躍した昭和初期、文楽座櫓下(やぐらした)は3世竹本津太夫であった。豪快な芸風を誇った津太夫は、晩年、20歳も年下鶴沢寛治(かんじ)(当時は寛治郎)を相三味線にした。そして寛治を、自分の芸にふさわしい力強い三味線弾きに育て上げる。津太夫の没後、寛治も、20歳ほど年下の4世竹本津大夫を弾くことになった。寛治が4世に求めたのは、3世のような語り口であった。25年に及ぶこのコンビは寛治の死によって解消されたが、4世津大夫は団七に力強い重厚な演奏を求めている。すなわち、相三味線のなかに脈々として流れているのは、義太夫節の伝統を次の世代へ正しく譲り渡そうとする意識である(「太夫」と「大夫」の表記は、1953年以降の文楽座の方針に従った)。

[倉田喜弘]

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