西浦村
にしうらむら
[現在地名]羽曳野市西浦一―六丁目・古市六―七丁目・西浦・はびきの二丁目・羽曳が丘一―四丁目など
軽墓村の南にある。羽曳野丘陵と高屋丘陵に挟まれた低地は、往古は浦江であったろうか。「河内鑑名所記」にも「西の浦ハ涼しくも有か夏座敷」と載る。昭和五三年(一九七八)西浦小学校改築工事中に弥生末期の突線鈕式近畿型袈裟襷文銅鐸が発見された。高さ八九・五センチで、府下第三位の大きさである。また乙ヶ池の付近は、渡来系氏族の高丘氏が建立した坂戸廃寺跡と想定されている。南北朝期には当地でも合戦があり、建武四年(一三三七)一一月日の土屋宗直軍忠状(土屋文書)に西浦がみえる。また明応二年(一四九三)畠山両軍が河内で戦った折の陣取次第(「蔭涼軒日録」同年三月二日条)に「一にしの浦誉田より四町、斉藤六郎左衛門尉、一ゆきのみやにしの浦のそは」とある。
西浦村
にしのうらむら
[現在地名]西区西浦
宮浦村の西、糸島半島北端と西岸を占め、北は玄界灘に面する。志摩郡に属し、南西は小田村、桜井村(現志摩町)。東に灘山、北に妙見山、蒙古山(一五八・五メートル)があり、北端の西浦岬は唐泊浦との網代境となっていた(続風土記拾遺)。中世から近世初頭には北崎、北崎村の内で、天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)、小早川時代の指出前之帳などでは北崎村の内に含まれる。慶長石高帳に西浦村とあり、慶長七年(一六〇二)の検地高は七四二石余。
西浦村
にしうらむら
[現在地名]吉田町西浦
多治比村の南に位置し、南は常友・常楽寺の両村に接する。東南流する多治比川の沖積地に集落があり、「芸藩通志」に「古は西日裏と書けり、広十九町余、袤六町余、南西北皆山、東は地開けて平田あり、澗水三流、合流して南に出る」とある。「西日裏」とは地勢によって名付けたものか。
嘉禎四年(一二三八)四月一七日の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に「石浦」とあるのがこの地と思われ、古くは厳島神社社領であった。村内平家ヶ丸城跡南麓に厳島神社跡があり、「安芸国神名帳」に記される四位石占明神がそれといわれる。
西浦村
にしうらむら
[現在地名]佐野市西浦町
三毳山の西麓に位置し、西に越名沼が広がる。都賀郡に属し、慶長四年(一五九九)より近世を通じて下総古河藩領。慶安郷帳に村名がみえ、田高五〇石余・畑高五二石余。天和二年(一六八二)の年貢免状(須藤卯文書)によれば高一〇三石、田八町七反余・畑二七町四反余。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)には高二二四石余(うち一二一石余は前々改出新田)のほか新田分一四石余が記されており、除地として竜谷寺六反余がある。天保頃には家数六四・人数二五一、馬九、農業の合間に男は薪などを売り、女は木綿を織出していた(前掲村明細帳)。
西浦村
にしうらむら
[現在地名]蒲生町西浦
前郷川支流の田平川上流域に位置し、南は北村・白男村、北西は薩摩国
答院郷上手村(現
答院町)。正八幡若宮縁起(蒲生八幡神社蔵)に載る貞治二年(一三六三)八月吉日の正八幡若宮守護番帳に「十日 権祝子 椎原命婦」とみえるが、「蒲生郷土誌」はこれを「西浦松原の椎原」に居住していた者であろうとしている。「上井覚兼日記」天正二年(一五七四)一一月九日条にみえる「西浦之行司富山名字之者」は、当地の行司であろうか。
西浦村
にしうらむら
[現在地名]蒲郡市西浦町
形原村の南に続く半島部の村。西は洲崎村(現幡豆郡幡豆町)。享保九年(一七二四)以後旗本巨勢氏の知行となって明治に至る。文久元年(一八六一)の酉木綿作附訳帳(牧原正尚氏蔵)では上田一反一畝一〇歩・中田一反五畝二七歩・下田九畝で分米四石四斗一升。物産は米・大豆・甘藷・漁獲物が主であったが、近世中期以後は副業として始められた花崗岩(幡豆石と俗称)の切出しがある。
西浦村
にしうらむら
[現在地名]吉川町富岡
熊谷村の西、北谷川上流の丘陵地にある。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山上村に同じ。正保郷帳では田方一二六石余・畑方七石余。村高は幕末まで変わらない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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西浦村
1889年(明治22年)の町村制施行により、西浦村が発足しました。当時の人口は3720人でした。後の1939年(昭和14年)に防府市と合併しています。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
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