日本歴史地名大系 「誉田八幡宮」の解説
誉田八幡宮
こんだはちまんぐう
永享年間(一四二九―四一)に成立した誉田宗縁起(詞書は将軍足利義教の筆、当宮蔵)に「応神帝葬于河内国古市郡長野山、欽明帝始改造廟而有行幸、聖徳太子亦有参詣、後冷泉御宇新造官社、去本所一町余」とあり、後冷泉天皇の時期に応神陵の南方一町余に造営されたとする。永承元年(一〇四六)に源頼信が誉田山陵に奉った告文(石清水文書)には社名はみえず、石清水八幡宮文書目録(石清水文書石清水璽御筥事裏文書)に載せる同年一二月に誉田山陵四至内の狩猟を禁じた宣旨案事書にも「誉田山陵」とのみあって神社には言及していないから、この段階ではまだ神社はなかったと考えられる。その後延久四年(一〇七二)九月五日に石清水八幡宮寺に宛てられた太政官牒(石清水文書)に「長久五年八月十五日国符云(中略)誉田山陵者、大菩薩御舎利之処也、今奉為法楽荘厳建立三昧堂」とあり、長久五年(一〇四四)誉田山陵を八幡神の御舎利処とみなして建立したという三昧堂が、当八幡宮の前身とみられる。保安四年(一一二三)四月二六日に石清水別当光清法印が誉田山陵に奉った告文(同文書)にも「当陵尓御座世留八幡大菩薩」と八幡神の降臨を示唆しており、山陵の神格化は着々と進行していたようである。神社の成立を明確に物語るのは、「集古十種」所収の鐘銘に「八幡宮 誉田山陵鐘也 建久七年
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報