日本歴史地名大系 「耳取村」の解説 耳取村みみとりむら 長野県:小諸市耳取村[現在地名]小諸市耳取浅間山の火山泥流の末端が千曲川に臨む辺りにあり、北は小諸(こもろ)城下・森山(もりやま)村、東は市(いち)村、南は塩名田(しおなだ)宿(現北佐久郡浅科村)に接し、西側千曲川の対岸は御牧原(みまきがはら)台地である。村の東方塚の前(つかのまえ)地籍に耳取大塚古墳が存在し、近辺から土師器・須恵器が出土する。天正二年(一五七四)の大井文書には大井庄一二郷内に「耳取之郷」とあるが、当初より大井(おおい)庄内であったかは明らかでない。天正六年二月の下諏訪春秋両宮御造宮帳には春宮御門屋を「平原之庄 耳執 森山 市村 前田原 右従四郷建之」とみえる。 耳取村みみとりむら 宮城県:古川市耳取村[現在地名]古川市耳取志田郡西端、多田(ただ)川流域に広がる水田地帯にあり、北は柏崎(かしわざき)村、東は柏崎村・保柳(ほやなぎ)村・新堀(にいぼり)村、西と南は加美(かみ)郡上狼塚(かみおいぬつか)村(現中新田町)と接する。正保郷帳に田三八貫二〇二文・畑五貫六一九文とあり、ほかに同所新田一貫四一九文がある。「安永風土記」によれば、田四一貫六六文・畑五貫八三九文で、蔵入は八貫三四〇文、給所は三八貫五六五文、人頭一六人(うち沽却禿七)、家数一六(うち借屋七)、男四六・女四二、馬七とある。羽黒派修験の鹿島山観水(かんすい)寺は二橋山金剛寺とも称され、貞観四年(八六二)慈覚大師の草創という。 耳取村みみとりむら 新潟県:見附市耳取村[現在地名]見附市耳取町鳥屋脇(とやわき)村の南、集落は東山丘陵の舌状台地縁辺部にある。西は水田を挟んで四ッ谷(よつや)村(現長岡市)。集落はかつて現在水田となっている西側の平坦部にあったが、近世後期に現地点に移転したという。慶長三年(一五九八)の古志郡高波庄耳取村新保村御検地帳(井上啓次郎氏蔵)では田四町四反・六一石四斗余、ほかに荒田一反半・一石八斗余、畠七反・四石三斗余。居屋敷は新保(しんぼ)村二筆、耳取村一筆。田畠に両村の区別はなく、新保村の現在地は不明。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by