臨床神経心理学(読み)りんしょうしんけいしんりがく(その他表記)clinical neuropsychology

最新 心理学事典 「臨床神経心理学」の解説

りんしょうしんけいしんりがく
臨床神経心理学
clinical neuropsychology

臨床神経心理学は,脳腫瘍や脳血管障害,脳炎,変性疾患といった疾病外傷中毒などによる脳損傷患者を対象に,複雑な心理機能と脳との関連を検討する学問である。外傷は交通事故などの偶発的なものや,脳外科手術によるものも含まれる。神経心理学neuropsychologyという用語はアメリカの心理学者ラシュレーLashley,K.(1937)によって最初に用いられたとされている。わが国では,大橋博司(1965)により臨床脳病理学として最初の報告がなされたが,この英語表題に「Clinical neuropsychology(臨床神経心理学)」が採用された。

 脳損傷による知能人格,感覚運動機能の障害には,失語,失認,失行,記憶障害,注意障害,遂行機能障害,社会的行動障害などが含まれる。古典的には失語が中心に研究されたが,丹念な臨床症例の検討から,失認や失行についてもさまざまな知見が集積されてきた。遂行機能executive functionの定義は複雑であるが,目的のある一連の行動を適切に行なうための計画,実行とその調整や制御といえる。遂行機能は作業記憶working memoryとも関連が強く,これらの各障害は厳密に区分される性質のものではない。

 近年,脳損傷に起因するこうした多様な障害を包括し,より臨床的に総称する用語として高次脳機能障害higher brain dysfunctionが用いられる場合がある。2001年より厚生労働省において高次脳機能障害支援モデル事業が立ち上げられたことから,この分野への福祉行政的な注目がなされた。一方,正常被験者を対象として脳の高次機能を研究する領域に,実験神経心理学experimental neuropsychology(もしくは単に神経心理学)がある。さらに,こうした脳の高次機能を認知機能として広くとらえ,情報処理の観点から研究する分野に認知心理学cognitive psychologyがある。脳の解剖学的・機能的局在性を踏まえたうえで,より生物学的観点から研究する分野に認知神経科学cognitive neuroscienceがある。前者は心理学寄りで後者は神経科学寄りと考えられる。

 このように,臨床神経心理学は人の脳を対象とした学際的領域であり,心理学,医学(神経学,脳外科学,精神医学など),そして近年目覚ましい発展を遂げている神経科学においてもその伝統に拠って立つ面は大きい。また,得られた知見をいかに臨床へ応用していくかという新たな課題には,リハビリテーション学のいっそうの発展とともに,ブレイン・マシン・インターフェイスbrain-machine interface(BMI)などを用いた工学的アプローチも可能であろう。

 脳の機能はある程度局在しており,局所性脳障害では,障害の部位により特異的な症状が現われる。特定の脳領域と機能に一定の関係があるという皮質機能局在が最初に示されたのは,ブローカBroca,P.P.(1861)による運動性言語野motor speech areaの推定である。彼は,言語表出が障害される運動性失語の患者の死後脳解剖から,左半球の下前頭回が,発話をつかさどる特別な領域であることを報告した。てんかん患者に対する半球離断術による分離脳split brainの研究からは,左右大脳半球の側性化に関する重要な知見が多く得られた。とくに左半球の言語優位性は広く知られている。1950年代にはアメリカの神経心理学者であるスペリーSperry,R.W.によって分離脳に関する一連の研究がなされた。ほかのてんかん手術による機能障害では「H・M」の例が最も有名なものの一つである。両側の側頭葉内側部,海馬,扁桃体の一部を切除され,以後,重度の前向性健忘を来たした。すなわち手術後に起きた出来事を記憶することに著しい困難を生じた。アルツハイマー型認知症では両側海馬に強い萎縮を認め,記憶障害が明らかとなる。脳損傷の部位によっては,抑うつ,易怒性などの気分の変化,人格変化やそれに伴う行動異常などの精神神経障害を来たす場合がある。事故で両側前頭葉の一部を限局的に損傷したゲージGage,P.の例(1868)は広く知られる。受傷後に社会性の欠如などの著しい人格の変化を来たし,以後,前頭葉障害の典型的特徴とされた。とくに,前頭前野の障害では,常同的で柔軟な判断の切り替えが困難となることが知られており,状況が変化しても同じ反応をしつづける保続perseverationが見られる。前頭側頭型認知症では前頭葉ないし側頭葉の特異的な萎縮が目立ち,これに対応した脱抑制や社会性の低下などの人格変化,常同的行動,意欲低下,感情鈍麻などの症状を認める。これらは,精神医学においては器質性精神障害に分類される。以上のように,特別な一症例に関する詳細な検討は心理機能の多様な側面を研究する手法として多大な貢献をしてきた。

 一方,統計学的に標準化された神経心理学的検査neuropsychological testを用いて障害を定量的に評価し,症状を検出する方法がある。通常,複数の検査を組み合わせて仮説を多面的に評価するが,こうした手続きはテスト・バッテリーtest batteryとよばれる。知能の全般を評価する最も一般的なものにウェクスラー成人知能検査Wechsler adult intelligence scale(WAIS)の第3版がある。被験者の成績を標準化された同年齢群のものと比較し,知能指数intelligence quotient(IQ)を算出する。検査は,複数の下位検査から成り下位検査間のディスクレパンシー(食い違い)discrepancyを検討することができる。現在は第4版に移行している段階で,下位検査は言語理解・知覚理解・ワーキングメモリー・処理速度の四つである。田中ビネー式知能検査は施行が簡単で,広く臨床で使用されるが,一元的評価になってしまうのが難点である。記憶の検査としてはウェクスラー記憶検査Wechsler memory scale-revised(WMS-R)や対となった単語を記憶する三宅式対語記銘力検査がある。より特異な機能障害を評価する検査としては,以下のものがある。前頭葉機能障害における遂行機能障害や保続が示唆されるものに,ウィスコンシン・カード分類テスト(Wisconsin card sorting test(WCST),ストループテストstroop testなどがある。頭頂葉から後頭葉の障害で認める空間把握の障害はベントン視覚記銘検査Benton visual retention testで評価される。検査の結果を解釈するにあたり,一般に言えることではあるが,年齢,性別,教育歴,薬物療法の有無などは,検査成績に影響を与える交絡因子となりうるため,神経心理学的検査では,とくに注意が必要である。近年は,コンピュータ断層撮影computed tomography(CT),核磁気共鳴画像magnetic resonance imaging(MRI)やポジトロン断層法positron emission tomography(PET),脳血流SPECTなどの神経画像技術の進歩により,脳の損傷部位の特定に,神経心理学的検査が第一に行なわれることはない。しかし,症状の機能的な理解とリハビリテーションへの展開を目的とした評価法としては,重要な役割を果たしている。 →失語症 →てんかん →認知機能リハビリテーション
〔多田 真理子・荒木 剛〕

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世界大百科事典(旧版)内の臨床神経心理学の言及

【機能局在】より

…しかし歴史的にみると,脳は全体として働くのであって,いろいろな機能中枢のモザイクとは考えられないという全体論の根強い反論があり,局在論との対立は現在まで尾を引いている。 機能局在を研究する第1の方法は臨床神経心理学で,脳に限局した病変のある患者の症状から,ある場所の機能を推定する方法である。この方法でウェルニッケC.Wernickeは感覚性言語野を発見し(1874),書字,読字,計算などの中枢が明らかになった。…

※「臨床神経心理学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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