知恵蔵 「舛添知事政治資金問題」の解説
舛添知事政治資金問題
舛添は1948年福岡県八幡市(現北九州市)に生まれ、79年渡仏後東大教養学部助教授に就任した。80年代後半には国際政治学の観点から世評に切り込む著書を著したり、学者風ならぬコメントでマスコミに露出したりとタレント学者として名をはせた。90年代から政界進出がうわさされ、99年には自民党都連の一部に推され東京都知事選に出馬した。当選した石原慎太郎とは大差ながらも、2位の鳩山邦夫には僅差(きんさ)で迫る票を得ている。2001年に非拘束名簿式となった参院選に自民党から出馬し、160万票近くを得てトップ当選を果たした。自民党が大敗した07年の参院選でも、党内では得票首位で当選した。同8月に厚生労働大臣に就任し09年9月まで留任した。同年9月に自民党が下野すると党執行部への批判を強め、10年4月には離党して改革クラブと合流し、新党改革を結成して代表となった。
13年末に不正な資金供与を受けたことが発覚して猪瀬直樹が都知事を辞任し、舛添は翌14年の都知事選に無所属で立候補を表明した。この時に解散した新党改革の支部(支部長舛添)は、政党助成金が大部分を占める支部予算を返納せず、舛添個人の政治団体などに資金移動している。自民党内では、都知事選での舛添擁立について、離党(後に除名)の経緯などから賛否が分かれた。しかし、舛添は高い前評判を背景に自民党東京都連からの推薦を取り付け、都知事選に出馬して他候補を圧倒する得票で当選した。
舛添は「東京を世界一の都市にしよう」をスローガンに都市外交を重視し、ソチ、北京、ソウル、ロンドン、ベルリンなどを立て続けに訪問した。都条例の規定を超過する外遊は都議会で野党の批判を浴びたが、16年4月までに延べ12都市を巡った。高額な外遊費は是正するとしたが、政治資金の私的流用については政治資金規正法に使途の制限がないのをよりどころに「不適切であっても違法ではない」として、リオデジャネイロ五輪までは知事の座に留まるとした。しかし都議会の批判は収まらず、野党や与党の公明党に次いで自民党からも不信任決議案を提出された後、辞意を表明した。
(金谷俊秀 ライター/2016年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報