デジタル大辞泉 「松尾寺」の意味・読み・例文・類語
まつお‐でら〔まつを‐〕【松尾寺】
奈良県
当寺の草創は「泉州松尾寺記」によれば、天武天皇元年(六七二)役小角が当地で七日間修法し、霊材を得て如意輪を刻んだのに始まるとされ、次いで泰澄が中興し、三所権現を祀ったという。もとより伝承の域を出るものではないが、当寺は葛城修験の一霊場として出発したのではないかとも考えられる。「続日本紀」延暦元年(七八二)七月二一日条には「松尾山寺僧尊鏡」が生年一〇一歳の長寿の故をもって大法師に叙位された記事がみえるが、松尾寺は大和・山城国にもあり、当寺と断定することは困難であろう。河内国河内郡の人沙弥尋祐は出家ののち松尾山寺に移住し、入滅に際し夜中に大いなる光が輝く奇瑞を示した話が「日本往生極楽記」「今昔物語集」巻一五に伝えられている。このように当寺の奈良・平安時代は伝承が伝わるにすぎないが、すでに人々に広く知られた寺であったといえよう。なお尋祐は鎌倉時代前期には、当寺の建立者とされている(貞応元年八月八日「官宣旨」松尾寺文書。以下とくに断らない限り引用文書は松尾寺文書)。
鎌倉時代以後の歴史は、当寺に伝えられている約九〇通の文書(府指定文化財)によってあとづけることができる。その最古のものは、元暦二年(一一八五)正月二二日付の源義経安堵状案で、「春木御庄内観音寺」と所見。次いで某年三月二八日付で源頼朝は「
永仁二年(一二九四)の頃、当寺の東側池田庄上方
草創についてはつまびらかでないが、徳治三年(一三〇八)成立の縁起(願文か)写や大永四年(一五二四)成立の丹後国青葉山松尾寺縁起があり、後者の伝えでは、平安中期の正暦年間(九九〇―九九五)に再建したという。同縁起によればその頃青葉山北麓の一漁師春日為光が海難に遭遇し、一浮木で助かった。海辺に漂着の後、
と、為光がわが国の馬頭観音の総本地と称される本尊を造像したと記す。近世の旧語集も同様の縁起を記すが、多少の異同が認められる。
寺伝によれば鳥羽法皇・美福門院の崇敬厚く、時の惟尊上人に勅して伽藍および一五宇の坊舎を再建せしめたといい、封戸・田地を付したという。前天台座主行尊の三十三所巡礼手中記(寺門伝記補録)に一六番松尾寺が記され、久安六年(一一五〇)の長谷僧正の参詣次第(塵添嚢鈔)に二八番としてみえるなど、すでに平安末期には観音霊場の一として知られていたことがわかる。
寺伝によれば、もとは真言宗で、弘法大師求聞持法修行の霊場とされたこの地に、朱雀院の時、基燈が一寺を建立したのに始まると伝える。基燈は「元亨釈書」に「周州大島郡人、苦修練行持戒慈悲誦法華毎日三十余部、眼耳通利見聞数十里、世曰得六根浄死時年一百四拾余歳、顔貌如三十許人」とあり、山岳宗教者で、当寺は山岳霊場寺院として成立したと考えられる。
その後の詳細は不明であるが、「注進案」によれば、寺の建立地が高山であったために住職となる者がなく退転したが、元久年中(一二〇四―〇六)竺岩という僧が堂を再建したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市山田町松尾山にある真言(しんごん)宗の寺。山号は補陀落山(ふだらくさん)。通称松尾山(まつのおさん)。本尊は十一面千手(せんじゅ)千眼観音菩薩(かんのんぼさつ)。718年(養老2)舎人(とねり)親王が元正(げんしょう)天皇の勅命で『日本書紀』30巻、『系譜』1巻を編集するにあたり、成就(じょうじゅ)祈願のため永業(ようごう)が開創した勅願寺だと伝えられる。中世以後、修験道(しゅげんどう)の寺として栄えたので修験関係の資料を多数所蔵する。また本尊の千手観音像(鎌倉時代、国重要文化財)は厄除(やくよけ)観音として信仰を集め、満願の日が初午(はつうま)の日であったためいまも初午大祭には「まつのおさん詣(まい)り」と称して全国からの参拝者でにぎわう。現在は本堂(室町時代、重文)、大黒堂、三重塔などがある。木造十一面観音立像(平安中期)、木造大黒天立像(鎌倉時代)、絹本着色阿弥陀(あみだ)聖衆来迎図(鎌倉時代、以上重文)、金銅装山伏笈(おい)(室町時代、県文化財)などがある。なお鎮守松尾山神社は京都の松尾大明神を勧請(かんじょう)したものである。
[宮坂宥勝]
『『古寺巡礼 奈良16 松尾寺』(1980・淡交社)』
京都府舞鶴(まいづる)市字松尾の青葉山の中腹にあり、真言(しんごん)宗醍醐(だいご)派に属する寺。青葉山または扶桑(ふそう)馬耳山と号する。本尊は馬頭観音(ばとうかんのん)。西国三十三所第29番札所。寺伝によれば、慶雲(きょううん)年間(704~708)に威光が草庵(そうあん)を結んで馬頭観音を安置し、養老(ようろう)年間(717~724)に泰澄(たいちょう)がきて奥の院を造営したといわれる。ついで正暦(しょうりゃく)年間(990~995)春日(かすが)為光が馬頭観音を刻み、1119年(元永2)には惟尋(いじん)が七堂伽藍(がらん)を造営した。のち織田信長の兵火で焼失したが、1579年(天正7)に国守細川幽斎(ゆうさい)が本堂を再建し、江戸時代にも堂舎の造営が行われた。現在、本堂(大悲殿)、大師堂、仁王(におう)門などがあり、寺宝に絹本着色の普賢延命(ふげんえんめい)像(国宝、平安後期)、絹本着色孔雀(くじゃく)明王像(鎌倉時代)、絹本着色法華曼荼羅(ほっけまんだら)図、木造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(以上、国重要文化財)などがある。5月8日に「仏舞(ほとけのまい)」が行われる。
[勝又俊教]
大阪府和泉(いずみ)市松尾寺(まつおじ)町にある天台宗の寺。山号は阿弥陀山(あみださん)。本尊は如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)。通称松尾観音。672年(弘文1)弘文(こうぶん)天皇の勅願により役小角(えんのおづぬ)が創立、のち越前(えちぜん)(福井県)の僧泰澄(たいちょう)が諸堂を建立して中興し、仁明(にんみょう)天皇のときに定額寺(じょうがくじ)となったと伝える。南北朝時代から室町時代にかけての盛時には、口伝(くでん)によれば寺領7000石、308の僧房をもち僧兵も有し、南朝に味方して活躍したという。1581年(天正9)織田信長の兵火により全山焼失したが、のち豊臣秀頼(とよとみひでより)が四天王寺の阿弥陀堂を移建したのが現在の本堂である。寺宝には、紙本墨書如意輪陀羅尼経(だらにきょう)、後亀山(ごかめやま)天皇宸筆(しんぴつ)の紙本墨書宝篋印(ほうきょういん)陀羅尼経、絹本着色孔雀明王曼荼羅(くじゃくみょうおうまんだら)(いずれも国重要文化財)などを蔵する。また境内には源平一ノ谷合戦の戦死者の首級を葬った首堂がある。
[中山清田]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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