艇盗の乱(読み)ていとうのらん

改訂新版 世界大百科事典 「艇盗の乱」の意味・わかりやすい解説

艇盗の乱 (ていとうのらん)

中国,清朝嘉慶期(1796-1820)に広東福建浙江,台湾の沿海猖獗(しようけつ)した海賊の乱。内乱と軍費調達に苦しむベトナム国王が,亡命中国人に商船を襲撃させたことに端を発し,乾隆末年には福建まで侵すようになった。のち阮福映(1762-1820,嘉隆帝)の王朝(グエン朝)が樹立されると後背地を失い,福建の海賊蔡牽の下に結集した。100余艇を率いる蔡牽の水軍に対し,清朝は李長庚を起用した。李長庚は戦力に勝る敵をよく敗走させたが,上官掣肘せいちゆう)をうけ根絶させえぬまま戦死した。しかし会党や一部官僚と通じ根強い勢力を誇った蔡牽もやがて孤立し,人事を刷新した清軍の包囲に1809年自沈した。白蓮教の乱と同時に発生したこの乱をすみやかに処理しえなかった点に,清朝官僚組織の腐敗が露呈されていたといえる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「艇盗の乱」の意味・わかりやすい解説

艇盗の乱
ていとうのらん

18世紀末からほぼ20年間にわたり中国東南の浙江(せっこう)、福建、広東(カントン)の海上および沿岸を舞台に行われた海賊の反乱行動。海寇(かいこう)の乱とも海盗の乱ともいう。その影響は、北は奉天(瀋陽(しんよう))から南はベトナムにまで及んだ。この反乱は次の三期に分けられる。第一期はベトナム政府の保護下で中国人およびベトナム人の海賊が活躍した時期、第二期はベトナム政府が背後に退き、反乱の中心人物蔡牽(さいけん)をはじめとする中国人海賊が活発な動きを示した全盛期、第三期は大量の投降者が続出した末期である。当時のこの地方における人口過剰、民衆窮乏、さらに官吏兵士の腐敗などの中国社会に内在する矛盾の現れとして評価されている。

[山本英史]

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世界大百科事典(旧版)内の艇盗の乱の言及

【海賊】より

…その後,フィリピン方面を襲う海賊も現れたが明・清交替期に鄭氏一派は福建により,次いで台湾に移って反清闘争をつづけ,しばしば中国本土を襲った。乾隆(1736‐95)末から嘉慶(1796‐1820)年間の〈白蓮教の乱〉と同時に,〈艇盗の乱〉が起こり,福建人蔡牽らがこれを率いたが,この乱は〈嘉靖の海寇〉と規模,性格ともに似ていたようである。清末から民国時代にはいってからも華南海上にはしばしば海賊が出没した。…

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