精選版 日本国語大辞典 「海賊」の意味・読み・例文・類語
かい‐ぞく【海賊】
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海上において、私的目的で、他の航海の安全を脅かす行為をする者のこと。海賊は、人類一般の敵(hostis humani generis)といわれ、国際法上では、公海自由に基づく旗国(船籍国)管轄の例外として、いずれの国も公海上で海賊を捕らえ自国に引致し処罰することが認められてきた。1958年の公海に関する条約および1982年の国連海洋法条約によれば、海賊行為piracyは、私有の船舶・航空機の乗組員・旅客が、私的目的のために、公海またはいずれの国の管轄権にも服さない場所にある船舶・航空機またはその中の人・財産に対して行う不法な暴力行為、抑留または略奪行為をいい、その教唆、幇助(ほうじょ)なども海賊行為に含まれる。また、いずれの国の軍艦、軍用航空機、権限ある他の政府船舶・航空機も、海賊船舶・航空機(国籍を問わない)を公海上で拿捕(だほ)することができ、その軍艦等の所属国は刑罰を決定できる。
[水上千之]
この種の海賊行為は船の航行の歴史とともに古くからみられ、積み荷の略奪をねらう単純な個人的海賊のほかに、時代、地域によって、それぞれの政治、経済、社会、軍事的事情のもとに組織された海賊の諸集団があった。それは、貿易や戦争の一部であったり、国家の保護、援助を受けたものもあり、国、地域の歴史に深くかかわっていて、固定した一つのイメージでは律することのできない面をもっている。
[松村 赳]
西洋の海賊は歴史とともに古く、すでに古代エジプトの盛時にその富をねらう海賊が地中海に出没していた。また、伝説的なクレタの王ミノスは海賊を掃討して海洋王国を築いたと伝えられており、紀元前15世紀、そのクレタ文明を滅ぼしたアカイア人はエジプトやフェニキアの商船や都市を襲い、富を奪った。島が多く湾や入り江に恵まれているエーゲ海は、ここに住み着いたアカイア人などにとって海賊行為にまことに好適な条件を備えていた。やがてバルカン半島にギリシア人のポリスが栄えるようになると、海賊はこの方面にも活動範囲を広げ、前6世紀には、40隻ものガレー船をもち海賊の大頭目として知られるサモス島の僭主(せんしゅ)ポリクラテスも現れた。前5世紀アテネが全盛期を迎え、強力な海軍を備えてデロス同盟を指導するようになると、海賊も制圧されたが、前4世紀アテネの力が衰えると、ふたたびはびこった。
陸軍国であったローマは、ポエニ戦争(前3~前2世紀)に際し海賊を雇って海軍国カルタゴに対抗したが、国を滅ぼされたカルタゴ人は海賊の仲間に加わり、まもなく海賊は西地中海にも広まって、周辺一帯を版図に収めたローマの海上貿易を脅かし、とくに食糧船が頻繁に襲われて、ローマはたびたび食糧難に陥った。また、カエサル(シーザー)は若いころ海賊の捕虜になったことがあるが、そのころには海賊の跋扈(ばっこ)がとくに甚だしくなっており、ついに、カエサルのライバルとなるポンペイウスが、前67年、計略によって約1万人を殺害、約2万人を捕虜にして海賊を一掃した。そのあと、初代皇帝アウグストゥスが海軍を整備したこともあって、しばらく地中海はローマにとって平和な「われらの海」になった。
[松村 赳]
中世の西ヨーロッパ諸国は、8世紀末ごろからバイキングの侵寇(しんこう)に痛めつけられた。首が長く底の浅い軽快な舟を操る彼らは、海岸だけでなく河川沿いに内陸にまで侵攻し、教会や貴族の財宝、農民の作物・家畜を奪い、町や村を焼き払った。彼らの活動は11世紀後半にはいちおう収まるが、その後、地中海の東方貿易に呼応して北海、バルト海でも通商が盛んになってくると、ふたたびバイキングの残党その他の海賊が勢いを盛り返し、スウェーデン沖のゴトランド島を根拠地に商船を脅かした。そこでドイツの諸都市は自衛のため同盟を結んで武装船団を組むようになった。すなわち、ハンザ同盟の結成には海賊が一因をなしていたのである。
[松村 赳]
地中海では、ローマ帝国が解体に向かうとともに海賊が復活し、続いて9世紀ごろには、アラビア半島から進出したイスラム教徒が地中海の島々を占領して南フランスやイタリアを荒らした。その後、十字軍の過程を通じてヨーロッパとアジアの交易(東方貿易)が盛んになり、地中海が通商路として栄えるようになると、その富をねらって海賊の動きも一段と活発になった。彼らは、北アフリカの地中海岸いわゆるバルバリア海岸を根城とするイスラム教徒で、中世末期の国土回復戦争(レコンキスタ)によってイベリア半島を追われたムーア人がこれに合流し、16世紀初めウルージとハイレディンという兄弟によって一種の海賊王国に組織された。
彼らはとくにスペイン船を襲い、スペイン王(兼神聖ローマ皇帝)カルロス1世の版図であったチュニジアを奪ったので、王はたびたび海賊討伐を試みたが、彼らの背後にはオスマン帝国などのイスラム勢力が控えていたので成功しなかった。1571年、ようやくスペイン艦隊はレパントの海戦でトルコとバルバリア海賊の連合艦隊を撃破し、以後トルコの勢いは衰えたものの、海賊のほうはすぐに立ち直り、相変わらず商船を襲うとともに、捕らえたキリスト教徒を奴隷として売買した。『ドン・キホーテ』の作者として有名なスペイン人セルバンテスも奴隷となった一人であった。そして17世紀初めには大型船の建造を覚えて大西洋にまで進出し、他方ではイスラム教徒以外にもさまざまな人間が加わって、バルバリア海岸は国際的な海賊根拠地の観を呈した。しかし、ヨーロッパ諸国が絶対主義体制を整え、陸海の軍事力を充実させてくると、彼らはしだいに各国共通の敵とみなされるようになり、17世紀後半フランスやイギリスがたびたび討伐艦隊を派遣したので、それ以降は衰退の一途をたどった。それでも、彼らの小規模な海賊行為はなお2世紀近く続けられた。
[松村 赳]
中世のヨーロッパは権力分散の社会で、秩序維持の責任は国王にあるのか地方の貴族にあるのかはっきりしない面があり、それが海賊の跳梁(ちょうりょう)を許した一因であったが、16、17世紀になり、絶対主義体制が確立してくると、名実ともに国家が成立し、国王が治安維持の責任者になった。一方では、いわゆる「地理上の発見」とそれに続く植民地獲得競争をめぐって国際紛争が激しくなった。このような情勢の変化を背景に、海賊のあり方も変わってきた。
当時、中南米に広大な植民地を確保し、その富を独占していたのはスペインであったが、それに挑戦したのは島国イギリスであった。イギリス海峡は大西洋とバルト海を結ぶ通路を扼(やく)しているため、中世以来イギリス南西部には海賊やそれに近い者が住み着いていたが、彼らは、スペインが中南米の富を運び込むようになると、これを襲い始めた。とくに16世紀後半のエリザベス時代(1558~1603)には、ホーキンズ、ドレークらがカリブ海や中南米沿岸に遠征してスペイン人の植民市や船を襲撃し財宝を奪って、スペイン王フェリペ2世を激怒させ、1588年の無敵艦隊来襲の一因となるとともに、その来襲時にはイギリス艦隊の司令官や艦長として勝利に貢献した。こうしたことからもわかるように、当時の「海賊」は相手かまわず手当たりしだいに襲う無法者ではなく、一種の補助海軍力という性格をもっていた。当時は、ある国の海賊に財宝を奪われた場合、国王は船長に、同じ国のどの船でも港でもよいから襲って、奪われたのと同額の財宝を奪い返してよい、という私掠(しりゃく)許可証を発行し、戦時中にはそれが敵船・敵港襲撃の許可証になった。したがって私掠行為は、見境なく襲う海賊行為とは本来区別されるべきものであるが、このころは戦時と平時の別がはっきりしなかったこともあり、私掠許可証を口実に平時にも襲ったり、友好国や自国の船から奪ったりするようになって、海賊行為と区別がつかなくなっていった。
[松村 赳]
17世紀のカリブ海は、本国と植民地の間を往復するスペイン商船の通り道であったうえ、領有のはっきりしない島が無数にあって、海賊にはかっこうの猟場であった。そのため、ジェームズ1世(在位1603~1625)の親スペイン政策によって追放されたイギリス人をはじめ、フランスやオランダの新教徒が集まった。彼らはバカニーアBaccaneerとよばれ、フランス人はトルチュ島、イギリス人はジャマイカ島を最大の巣窟(そうくつ)としたが、襲撃は共同で行うこともあった。イギリス、フランス、オランダの本国政府は、この地方をめぐる植民地争奪戦に彼らを補助海軍力として利用し、植民地総督を通じて私掠許可証を交付、その活動を黙認した。
しかし、彼らの活躍もあって、おもな島々が分割領有され、イギリス領のジャマイカをはじめ、その島々が砂糖やタバコの生産によって本国に大きな富をもたらすようになるとともに、他方で各国の海軍力が整備されてくると、本国にとってバカニーアの利用価値は薄れ、往々にして通商を妨げる彼らの存在はかえってじゃまになり、取り締まられるようになった。イギリスが1665年、私掠船長というよりは海賊のヘンリー・モーガンSir Henry Morgan(1635?―1688)をジャマイカ副総督に任命し、毒をもって毒を制するやり方で海賊鎮圧にあたらせたのは、その典型例であった。
こうして、17世紀末から18世紀初めには彼らはしだいに影を潜め、スペイン継承戦争(1701~1714)の際、従来は仲間として協力しあうことの多かったイギリス人とフランス人のバカニーアが反目するに至ったことは、その傾向を助長した。そして、海賊討伐に派遣されながら自ら海賊に転落したキッドや、大胆な略奪で恐れられたあと壮絶な死を遂げた黒鬚(くろひげ)ティーチEdward Teach(Blackbeard)(1718没)のように、一匹狼(おおかみ)となって各地を荒らす海賊はまだしばらくはみられたが、少なくとも欧米ではしだいに姿を消し、海賊の中心舞台は紅海、インド洋方面に移っていった。
[松村 赳]
海賊は、海洋のロマンに包まれているとともに、冒険心をかき立てるところがあるため、よく文学にも取り上げられている。漂流小説『ロビンソン・クルーソー』の著者デフォーは『海賊シングルトン』(1720)を書いているし、19世紀の詩人バイロンには『海賊』(1814)という作品がある。また、海賊の首領が残したと伝えられる財宝は、謎(なぞ)解きのおもしろさもあって、これも文学の主題によく使われる。ポーの『黄金虫(こがねむし)』(1843)やスティーブンソンの『宝島』(1883)はその代表例である。
[松村 赳]
アラビア近海には古代から海賊が横行し、聖典コーランにも「すべての船舶を強奪する王」ということばがみえている(第18章79節)。紅海入口のペリム島、アラビア海のソコトラ島なども海賊の根拠地として有名であったが、とりわけガルフ(アラビア湾=ペルシア湾)に臨むカタールからムサンダム岬に至る地方は昔は海賊海岸とよばれ、このへんの住民をよぶジャワスミという名は海賊の別名で、「その生業は海賊行為、快楽は殺人」とまでいわれた。前7世紀ころからその討伐がたびたび行われた記録がある。イスラム時代に入ってもその害はやまなかったが、1818年以来イギリス人がこれに痛撃を加え、海賊民の首長らと休戦(トルース)条約を結んだので、以来トルーシャル海岸とよばれた。
また北アフリカのチュニジア、アルジェリア、およびモロッコの一部の海岸地方に住み着き、西地中海を往来する欧州船および沿海地方を荒らしたのがバルバリア海賊で、その快速船をイタリア語でコルサーロとよんだので、アラビア語でも海賊をクルサーンとよぶようになった。
[前嶋信次]
古代から中世・近世の初頭にかけて海上の諸権益に生活の基盤を置き、海上交通の発達に伴って繁栄してくる港湾や航路筋の海辺、島々に拠(よ)って活動し、つねにその時代の支配者と対立した海の豪族をいう。
律令(りつりょう)政府は756年(天平勝宝8)、大量の物資が運べる海上輸送に着目して、山陽・南海道諸国の舂米(つきよね)を海路で運ぶことを決め、その後、九州地方の雑米(ぞうまい)や調(ちょう)・庸(よう)も盛んに瀬戸内海を経由して中央に送られた。海上交通の発達は航路筋の諸国の港湾を繁栄させたが、一方で海賊発生の大きな要因となった。
古代の海賊では、939年(天慶2)に宇和海にある日振(ひぶり)島に拠って王朝国家に反旗を翻した藤原純友(すみとも)が名高い(天慶(てんぎょう)の乱)。しかし、それ以前の貞観(じょうがん)年間(859~877)にも、往還の人々が殺害されたり、公私の雑物が略奪されたり、官米の運漕船が襲われて米が奪われ、乗組みの百姓が殺害される行為が多発している。猛威を振るった純友は941年6月、伊予の警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれたが、純友の率いた海賊集団は、西国に特徴的な浮動性の強い大小の富豪浪人が中心となり、彼らに従う従類と律令制下の貧しい農・漁民が加わったものであった。
中世以後、伊勢(いせ)・志摩・肥前地方の海賊が著名であるが、ここでは瀬戸内海の野島村上氏(能島村上氏)の場合をみてみよう。南北朝の1349年(正平4・貞和5)、内外の諸勢力に妨害されて東寺(とうじ)の荘園(しょうえん)弓削(ゆげ)島の所務が停滞したとき、野島村上氏は東寺の要請を受けて高額な警固料を受け取って、警固の役目についている。伊勢の大湊(おおみなと)、近江(おうみ)の琵琶(びわ)湖でも海賊が警固料をとる風習があったが、まさに警固料は海賊の重要な財源となった。野島村上氏は永正(えいしょう)(1504~1521)ごろ、管領(かんれい)の細川高国(たかくに)から瀬戸内海東部讃岐(さぬき)の塩飽(しわく)島の代官職を与えられ、戦国時代には安芸(あき)の毛利(もうり)氏、豊後(ぶんご)の大友(おおとも)氏に依頼されて水先案内を務めている。野島村上氏の根拠地野島は燧灘(ひうちなだ)と鼻栗(はなぐり)瀬戸が眺望できる海上の要衝にあった。ルイス・フロイスは、海賊領主野島氏の姿を「海賊は同所に大なる城と多数の部下、領地及びたへず出動する船を有し能島殿と称して甚だ有力である。それで他の諸国の沿岸の地では、彼を恐れて毎年年貢を納めてゐる」。「彼はその紋章と署名のある絹の旗を与へ、疑はしい船に出合ったときこれを示すようにと伝へた。これは彼の与へ得る最大の好意で、各地方には彼を主君と認めざる海賊も多数あるが、航海者が最も恐れるのは彼である」と活写している。
海賊領主の野島村上氏は1585年(天正13)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の瀬戸内海進出によって、野島城を退去して、毛利氏の領国周防(すおう)に移り、やがて毛利氏の船手組(ふなてぐみ)に編成されて海賊の生活と縁を切った。
このように海賊は初めは独立した立場を堅持し、南北朝内乱期にもっとも活躍するが、守護大名、戦国大名、近世大名などの海辺部支配が段階的に進むにつれて存立の基盤を失い、自身の性格から、大名の水軍組織である海賊衆、警固衆、船手衆に組み込まれて封建家臣へと転身する経緯をたどるのが一般的である。1588年(天正16)7月、秀吉の発布した「海上賊船禁止令」によって、海賊はその存在を否定されて姿を消した。
[宇田川武久]
中国では17世紀の明(みん)末清(しん)初の鄭芝竜(ていしりゅう)・成功(せいこう)父子と19世紀初頭の鄭一嫂(ていいっそう)が名高い。鄭芝竜は福建省出身で、密貿易によって台頭、大陸沿岸一帯に強大な海上勢力を有して活動し、1628年には明朝に仕えて海上権を掌握した。父の財力を受けた成功は、ルソンなどの南洋諸地域と貿易し、明朝復興のため清の軍隊と戦い、厦門(アモイ)、江南に進出、1661年にはオランダ人を追って台湾を領有するなど活躍をした。鄭一嫂は、複雑な海岸線をもつ広東(カントン)の海辺を巣窟(そうくつ)とし、砲門多数を備えた大小500余艘(そう)の船団を保有し、沿岸の村々からは年貢を徴収して財源とし、しばしば清朝の水軍と戦った。
[宇田川武久]
『『世界ノンフィクション全集48』(1963・筑摩書房)』▽『ユベール・デシャン著、田辺貞之助訳『海賊』(白水社・文庫クセジュ)』▽『ジョルジュ・ブロン著、三輪秀彦訳『カリブの海賊史』(1973・早川書房)』▽『ヤツェク・マホフスキ著、木村武雄訳『海賊の歴史』(1975・河出書房新社)』▽『別枝達夫著『海事史の舞台』(1979・みすず書房)』▽『別枝達夫著『海賊の系譜』(1980・誠文堂新光社)』▽『スタンリー・レーン・プール著、前嶋信次訳『バルバリア海賊盛衰記』(1981・リブロポート)』▽『チャールズ・ジョンソン著、朝比奈一郎訳『イギリス海賊史』上下(1983・リブロポート)』▽『ジョン・エスケメリング著、石島晴夫訳『カリブの海賊』(1983・誠文堂新光社)』▽『宇田川武久著『日本の海賊』(1983・誠文堂新光社)』
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…当時のギリシア軍船の船長は操船や船上任務専門の騎士で,国が派遣する将軍の指揮下に自分の船を就役させ,漕ぎ手は奴隷や捕虜から補充された。 古代から中世にかけて地中海の交易が拡大するにつれて,海賊の跳梁も盛んになった。交易の安全をはかるため,カルタゴ,ローマ,東ローマ,サラセン,トルコの諸国は海軍を建設した。…
…鎌倉後期,北条氏専制のなかで瀬戸内海を中心とした山陽・南海両道に発布された鎌倉幕府の海賊取締制度。幕府はその支配権を西国に及ぼすようになると,瀬戸内海地域に跳梁する海賊の取締りにあたった。…
…中世末から近世のはじめにかけて九州,瀬戸内海などの海上交通の要衝に勢威をはった海辺の武士団を〈海賊〉と称し,海賊衆は守護大名や戦国大名と主従関係をもち,海上軍事力を構成した組織集団の水軍をいう。ほんらい海賊は権力に組みこまれることを好まない存在であったが,南北朝・室町時代の守護大名や守護を凌駕して台頭した戦国大名が,その支配力を領国内の浦々や港湾,海にそそぐ河口近辺におよぼしはじめると,そうした所を根城とした海賊は,いままで所有していた所領や海上諸権益の安堵や新しい所領の充行(あておこない)を大名権力からうけながら,守護大名の被官となったり,戦国大名の家臣に,それもその性格から海上軍事力を構成する警固衆に編成されて海賊としての性格を失って封建家臣に変身する経緯をたどるのがふつうである。…
…荘園制の発展とともに荘園の年貢を輸送するための港湾施設が発達し,京への物資の集積地として難波津や大輪田泊(おおわだのとまり)などに多くの荘園の倉庫が設けられ,梶取などの海上輸送業者が現れた。 平安時代初期から官米輸送船を襲う海賊が横行するようになり,さらに10世紀中ごろには藤原純友を首領とし,内海沿岸の地方豪族に率いられた海賊の反乱(藤原純友の乱)が起こっている。伊予国の日振(ひぶり)島を本拠とし,純友麾下(きか)の海賊船は1500艘といわれた。…
…8世紀末~11世紀にヨーロッパを襲ったスカンジナビア人の海賊。
[語源]
古北欧語ではビーキングvíkingrと記され,‐ingは人を表す。…
※「海賊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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