日本大百科全書(ニッポニカ) 「芝居看板」の意味・わかりやすい解説
芝居看板
しばいかんばん
江戸時代以来の歌舞伎(かぶき)の劇場で、その正面に飾り、興行の宣伝をするための各種の看板をいう。成立期から延宝(えんぽう)(1673~81)のころまでは、おもな出演者・座組み・上演狂言・役割などを記した文字看板ばかりであったが、元禄(げんろく)期(1688~1704)から絵看板も現れるようになった。
全盛期の江戸の顔見世(かおみせ)興行のときを例として述べる。まず中央の櫓(やぐら)のすぐ下に掲げるものを「櫓下(やぐらした)看板」といい、狂言の粗筋が理解できるような大型の絵看板を下げた。櫓のやや左側に、縦に長い大型の上演狂言の題名を記した「大名題(おおなだい)看板」が立ち、その上のほうにおもだった俳優の役の姿を絵や細工物で飾って示した。その左に「すごみの看板」または「だんまり看板」といって、暗闇(くらやみ)の立回りの場面を描いたものがあり、その左に4枚の「小名題(こなだい)看板」が並ぶ。これは、四番続きの一番一番につけた題名を示している。その左側が出演者全員の配役を書いた「役割看板」である。中央の櫓より右側は、右の端から順に「大通し看板」「浄瑠璃(じょうるり)名題看板」「浄瑠璃絵看板」「袖(そで)看板」など。これらのほかに「紋看板」といって、顔見世興行の初日以前に中通り以上の役者全員の紋・役柄・芸名を書いたものを並べた。
顔見世以外に掲げるものに「翁(おきな)看板」「当り看板」「脇(わき)看板」「口上看板」などがある。非常に種類が多いが、それぞれ性格・形状などに約束があった。絵看板は、劇場に所属していた鳥居派の絵師たちが描き(ただし、下絵は狂言作者が描く)、看板の文字は江戸では勘亭(かんてい)流、上方(かみがた)では東吉(とうきち)流で書くのが慣例であった。
近代以降、前述したしきたりはしだいになくなり、現代では京都の南座が顔見世興行のときに限って掲げる「招き」と、各座で上演狂言の見せ場を描いた「絵看板」だけが、かろうじて江戸時代の名残(なごり)を伝えている。
[服部幸雄]