日本の古典芸能。主として科(しぐさ)と白(せりふ)によって表現される喜劇。室町初期以来、能と密接な関係を保ってきたので、能と狂言を一括して「能楽」とよぶ。
[小林 責]
「狂言」という語は古い漢語で、常軌や道理に外れたことば、あるいは冗談、戯言(ざれごと)などの意味をもっていた。日本ではすでに『万葉集』に用いられ、「たわごと」と読まれている。平安時代には「狂言綺語(きご)」(事実でないことを修飾して言い表したことば、転じて小説などの文章)という熟語でも普及したが、以後しだいに滑稽(こっけい)と同義の普通名詞として使われることとなった。一方、これが舞台芸術の一種をさすようになるのは南北朝時代で、まず延年(えんねん)の諸芸のなかにこの名目がみえ、室町時代に入り、能と共演する滑稽な芸をよぶ語として定着した。江戸中期以後には「歌舞伎(かぶき)狂言」の語が一般化し、狂言は「芝居」の別称のように使われるようになったため、本来の狂言は「能狂言」とよばれることもあったが、第二次世界大戦後その価値が再評価されるとともに、名称も復権し、狂言といえば能楽の狂言を称するという認識が普遍的となった。
[小林 責]
狂言は、奈良時代に中国から渡来した散楽(さんがく)の諸芸のうち、滑稽物真似(ものまね)の芸態の伝統を受けるものと考えられる。散楽は平安時代に入ると猿楽(さるがく)とよばれるようになり、これは鎌倉時代を通じて、まじめな歌舞劇である能と、滑稽な科白(かはく)劇である狂言とに分化した。そして、室町前期、大和(やまと)猿楽の世阿弥(ぜあみ)らによって猿楽の能がほぼ今日の能に近い姿に整えられたとき、狂言はなお即興的寸劇にすぎなかったようであるが、猿楽の一座に組み込まれ、能の支配を受ける関係になっていた。当時、近畿一円には大和のほか、近江(おうみ)、宇治、丹波(たんば)、摂津などにも猿楽の座があり、それぞれに狂言師が専属していたが、戦国争乱の間にしだいに衰微し、隆盛な大和猿楽に含み込まれたり、京都を中心に狂言師だけの一座を形成したりしていった。そして、室町後期に狂言も演劇としての形態を整えると、まず大和猿楽の狂言方によって大蔵流(おおくらりゅう)が、ついで江戸前期に新興の鷺(さぎ)・和泉(いずみ)2流が成立した。徳川幕府は能楽を武家の式楽(儀礼用の芸能)に指定して役者を扶持(ふち)したので、大蔵・鷺2流は幕府直属の流儀として、和泉流は尾張(おわり)徳川藩と加賀前田藩の禄(ろく)を受け宮中御用も勤める流儀として、しかもこれら3流の狂言師は地方各藩にも召し抱えられて、江戸時代を安泰に経過する。
しかし、明治維新によって保護者を失うと、狂言界は混乱に陥り、明治中期までに大蔵・鷺両流宗家が、大正初期には和泉流宗家も廃絶した。そして東京では、遷都とともに京都、金沢などから新都に集まった和泉流三宅藤九郎家(みやけとうくろうけ)とその一派および大蔵流山本東次郎(とうじろう)家など、京阪では大蔵流茂山千五郎(しげやませんごろう)家、茂山忠三郎(ちゅうざぶろう)家など、いずれも弟子家によって芸統が伝えられたが、明治初期におもだった流儀狂言師が吾妻(あづま)能狂言に参加し、ついで歌舞伎界に接近していった鷺流はついに衰亡した。昭和に入って大蔵・和泉両流とも宗家を再興した。東京には大蔵流の家元大蔵弥右衛門(やえもん)家・山本東次郎家・善竹十郎(ぜんちくじゅうろう)家・和泉流の野村万蔵家・野村万作家・三宅右近家・宗家和泉家などがある。京阪には茂山千五郎家・茂山忠三郎家と忠三郎家から分かれた善竹家、名古屋には和泉流の野村又三郎家や同流狂言師の結社である狂言共同社などがあり、各地の上演単位として活躍している。芸風は、流儀より土地柄を反映し、東京は知性的な規格正しい芸、京阪は情緒的で写実味の濃い芸、名古屋は東西両者の中間的な芸を形成している。
第二次世界大戦後の狂言界の著しい動向としては、能の従属的立場から解放されるとともに、軽妙な喜劇性と簡潔な舞台表現とが広く一般に再認識されたことがあげられる。そして、1955年(昭和30)ごろ以降は、狂言師の新様式の創作劇あるいは歌舞伎をはじめ他ジャンルの演劇への参加や、新劇俳優との共演によるギリシア劇の上演などが話題をよんだが、さらに海外への普及活動によって、今日、狂言は世界的視野において評価されるに至っている。
[小林 責]
狂言方の演ずる芸は、〔1〕三番叟(さんばそう)(大蔵流では「三番三(さんばそう)」)および風流(ふりゅう)、〔2〕間(あい)狂言、〔3〕本(ほん)狂言に分けられる。
〔1〕三番叟および風流は、能楽の儀式芸である『翁(おきな)』のなかで狂言方が担当する演技である。三番叟は、シテ方が勤める翁が退場したあと、五穀豊穣(ほうじょう)を祈って1人で演ずる舞で、前半の素面(すめん)で勇壮に舞う「揉(もみ)の段」と後半の黒式尉(こくしきじょう)の面をつけ鈴を持って軽快に舞う「鈴の段」とに分かれている。風流は、華美に着飾った多数の役者が登場するめでたい内容をもつ単純な劇である。
〔2〕間狂言は、能のなかの一役として狂言方が受け持つ演技をいい、その役はアイと略称される。シテの中入(なかいり)の間に一曲の主題や内容などを平易に説明する語リ間(かたりあい)、能の諸役と共演するアシライ間(あい)、狂言方が2人以上出て寸劇を演ずる劇間(げきあい)に大別される。概して身分の低い役であるが、能一曲の雰囲気を左右することもあり、軽視できない。
〔3〕本狂言は独立した筋をもつ演劇で、ただ「狂言」というときには本狂言をさす場合が多い。主役をシテ、脇(わき)役をアドといい、和泉流ではアド1人以外を一括して小(こ)アドと称している。また参詣(さんけい)人や花見客など同性格の数人いっしょに登場する者を立衆(たちしゅう)、その統率者を立頭(たちがしら)とよぶ。現行曲(流儀が公認しているレパートリー)は大蔵流180番(ただし茂山千五郎家・山本東次郎家は各200番)、和泉流254番、共通の曲が191番で、両流あわせて263番の曲がある。通常2~4人で演じ、大勢物(おおぜいもの)といわれる数人の曲は約40番あるが、十数人を要するものは『唐相撲(とうずもう)』『太鼓負(たいこおい)』『老武者(ろうむしゃ)』などごくまれである。上演時間はほとんどが20~40分で、1時間を超すのは『花子(はなご)』『釣狐(つりぎつね)』などにすぎない。本狂言は、世阿弥のころすでに能と能との間に勤めるのを原則とし、以後今日に至っているが、能と狂言という対照的な性格をもつ芸能を交互に演ずるのは、外国にも例をみない巧みな上演の知恵といえよう。もっとも、狂言だけを並べる「狂言尽くし」も安土(あづち)桃山時代から行われ、近年はとくに盛んである。
[小林 責]
本狂言の内容の大きな特色は喜劇性と庶民性である。
平安時代の猿楽の笑いはかなり卑猥(ひわい)なものであったと思われるが、世阿弥は「笑(え)みのうちに楽しみを含む」ような笑い、すなわち上品でなごやかな滑稽味を狂言に要求した。さらに、その歴史を通じ、貴族的な能と同じ舞台で上演され、ことに江戸時代には武家式楽に定められ武士に直属することになったため、しだいに笑いを洗練し昇華させた。現在の狂言にみられる笑いの要素としては、中世芸能が存立の精神的支柱とした「祝言(しゅうげん)性」や下剋上(げこくじょう)の風潮を反映する「風刺性」も認められるが、多くの曲を支配しているのは「滑稽性」と称される、なんの目的ももたない、ともかく楽しい笑いである。室町時代は乱世であり、世相も不安定で殺伐としていたが、そういう時代であったからこそ、庶民は上昇のエネルギーを蓄積することができた。こうした社会意識を反映した室町民衆の現世謳歌(おうか)の笑いが、狂言の滑稽性だといってよい。笑いを含まない曲は、座頭(ざとう)狂言の『川上(かわかみ)』『清水(きよみず)座頭』『月見(つきみ)座頭』などほんの数曲にすぎないが、これらにはペーソス(哀愁)あるいは詩情を感じさせる秀作が多く、狂言の内包する質の幅を広げている。
本狂言には前代までの説話集などに典拠を求めたものもあるが、それはごくわずかで、ほとんどは当代世相に取材した室町時代の現代劇である。登場人物は社会の各階層にわたり、さらに神仏、鬼畜、動植物にまで及んで、シテの役柄だけでも多種多様である。そして、大名・僧侶(そうりょ)など権威ある者には批判的であるのに対し、武士・土豪の召使いで下人(げにん)とよばれる隷属民であった太郎冠者(たろうかじゃ)をもっとも活躍させ、社会ののけ者である博奕打(ばくちうち)、すっぱ(詐欺(さぎ)師)、盗人、山賊などにはむしろ同情的で、真の悪人としては扱っていない。歴史上の有名人物も在原業平(ありわらのなりひら)は女好きの典型、朝比奈三郎義秀(あさひなのさぶろうよしひで)や鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)は強者の代表として取り上げているにすぎず、鬼や閻魔(えんま)にも好色とか生活困窮者とかいった当代人の俗性を与えている。神仏も七福神クラスの親しみのもてる民間信仰の対象である。こうした登場人物の選択と性格づけには、ヒューマニズムを基調とした庶民性が強く感じられる。
[小林 責]
本狂言の分類としてもっとも一般的なのは、主としてシテの人物類型によって分けたものである。以下には、和泉流の分け方に私見を加えた分類により、それぞれの内容の特色を概説する。
〔1〕脇(わき)狂言 神が人々に福を授け祝言の舞を舞う神物(かみもの)、鷹揚(おうよう)な長者と迂闊(うかつ)あるいは機転のきく召使いとの交渉がめでたい結末を迎える果報物、地方の百姓が在京領主にめでたく年貢を上納する百姓物、冠者が都のすっぱ(詐欺師)にだまされ命じられたものとまったく違った物を求めてくる太郎冠者(たろうかじゃ)物、市場の一番乗りを商人2人が争うものなどさまざまな曲を含む雑物に細分類できるが、いずれも、めでたさを含み、なごやかな笑いを誘うのが共通点といえる。そのため、役柄によらない、『翁』の脇に添う意味をもつ脇狂言という別種の類別を残しているのである。『福の神』『末広かり(すえひろがり)』『宝の槌(つち)』『筑紫奥(つくしのおく)』『鍋八撥(なべやつばち)』など35曲。
〔2〕大名(だいみょう)狂言 大名とはいっても地方の土豪程度の武士である。そこで、いばってはいても実は愚かか無力であり、その外観と内面の矛盾が笑いを誘うのだが、大名は概して明るくおおらかであるので、その滑稽は風刺よりむしろなごやかな楽しさを漂わせる。『靭猿(うつぼざる)』『蚊相撲(かずもう)』『鬼瓦(おにがわら)』など16曲。
〔3〕太郎冠者狂言 太郎冠者には気の利く賢明な者も多いが、これがシテとなる太郎冠者狂言では概して愚鈍、横着、臆病(おくびょう)、そして酒好きと欠点が表だつ。しかし無邪気で愛敬(あいきょう)に満ちているのが特徴で、醸し出す笑いも底抜けに明るい。『寝音曲(ねおんぎょく)』『附子(ぶす)』『棒縛(ぼうしばり)』『素袍落(すおうおとし)』『千鳥(ちどり)』『木六駄(きろくだ)』など45曲。
〔4〕聟(むこ)狂言 結婚後、聟が舅(しゅうと)方を訪ね正式に親子の対面をする聟入りの式に際し、聟が幼稚あるいは貪欲(どんよく)などのため失態を演じる聟入り物、聟志願の男が娘の醜い顔を見て逃げ出したり無能を暴露して聟になり損ねたりする聟取り物に分けられ、聟入り物には祝言性が認められる。『二人袴(ふたりばかま)』『舟渡聟(ふなわたしむこ)』など17曲。
〔5〕女(おんな)狂言 狂言には老尼以外の女性をシテとする曲はなく、ここに含まれるのは家庭内の男女の葛藤(かっとう)を描いた夫婦物と期待の花嫁が不美人なのに驚く妻定め物である。夫婦物では、概して妻のほうが勝ち気で強いので、恐妻話の滑稽が生ずる。『鎌腹(かまばら)』『千切木(ちぎりき)』『箕被(みかずき)』『花子(はなご)』など30曲。
〔6〕鬼(おに)狂言 鬼のほか閻魔・雷をシテとする曲で、一見恐ろしげなこれらの異類がたわいなく人間の知恵や腕力に負けてしまう無知・無力など、その倒錯が漫画的な笑いを誘う。『節分(せつぶん)』『首引(くびひき)』『八尾(やお)』など9曲。
〔7〕山伏(やまぶし)狂言 山伏がいかめしい姿で行力を誇りながら祈祷(きとう)がいっこうに効かない無能力ぶりを笑いの対象とする曲が多いが、風刺性より童話的な楽しさを感じさせる。『禰宜(ねぎ)山伏』『菌(くさびら)(茸)』『蝸牛(かぎゅう)』など9曲。
〔8〕出家(しゅっけ)狂言 僧侶の貪欲、破戒、無学を風刺した曲が多いが、ひたすら悟道を求める旅僧を好意のまなざしで見守っている曲もある。新発意(しんぼち)物は、主人と太郎冠者が住持と新発意に置き換えられただけで、笑いは概して明るく楽しい。『宗論(しゅうろん)』『布施無経(ふせないきょう)』『名取川(なとりがわ)』『御茶の水』など25曲。
〔9〕座頭(ざとう)狂言 盲人を主人公とした滑稽味のある曲と、身障者の叡知(えいち)と哀愁を描きペーソスを漂わす曲とがある。『丼礑(どぶかっちり)』『川上(かわかみ)』など8曲。
〔10〕舞(まい)狂言 旅僧が所の者にいわれを聞き、死者の回向(えこう)をしているところへその亡霊が現れて最期のありさまを舞うという、能と同様の構成をもち、パロディーの滑稽をねらった曲。『通円(つうえん)』など7曲。
〔11〕替間(かえあい)狂言 独立性の強い替間(特別演出の間狂言)で、単独でも上演する曲。『猿聟(さるむこ)』など6曲。
〔12〕雑(ざつ)狂言 以上に分類できない曲を一括するので内容は雑多であり、アウトローをシテとする曲などはここに含まれる。『茶壺(ちゃつぼ)』『瓜盗人(うりぬすびと)』『悪太郎(あくたろう)』『米市(よねいち)』『武悪(ぶあく)』など56曲。
以上のほかに番外曲と新作狂言とがある。番外曲は、江戸時代および明治維新以後の新作、あるいは他流の曲を取り入れた準現行曲ともいうべきもので、大蔵流には11番、和泉流には27番の曲があるが、実際には大蔵流では井伊直弼(なおすけ)作『鬼ヶ宿(おにがやど)』、冷泉為理(れいぜいためただ)作『子の日(ねのひ)』、和泉流では『見物左衛門(けんぶつざえもん)』以外はほとんど上演されない。新作狂言は、明治維新以後に創作された本狂言の総称で、試演されたものだけでも120番以上を数えるが、再三上演されているのは飯沢匡(ただす)作『濯(すす)ぎ川』、木下順二作『彦市(ひこいち)ばなし』、小松左京(さきょう)作『狐と宇宙人』、帆足正規(ほあしまさのり)作『死神』ぐらいのものである。なお新作狂言のうち『子の日』『濯ぎ川』のように番外曲に編入された曲もある。
[小林 責]
狂言は能とともに能舞台で演じられる。その演出や演技を能同様に「型」とよぶのも、こうした象徴劇・歌舞劇用の殺風景な舞台で能の影響下に演じられてくる間に、演出も演技も類型化されたためであろう。したがって、狂言は科(しぐさ)と白(せりふ)を演技の主要素にするとはいっても、近代写実劇とは本質的に異なる。やや腰を落とし重心を下げた構えや摺足(すりあし)の運びは能と同じで、日常の姿勢や歩き方とは異なり、せりふにも各文節の2字目の音を強めるのを基本とする独特のイントネーションがある。小舞謡(こまいうたい)・小舞(こまい)と称する歌舞から稽古(けいこ)に入るのは、発声および姿勢・運歩という演技の基礎をまず身につけ、せりふの美化としぐさの律動化を養うためである。
演劇としての構成は単純、素朴である。ほとんどの曲は、登場した人物の自己紹介である「名乗(なのり)」で始まり、あとすぐ相手役を呼び出すか、場面を転換するために本舞台を一巡する「道行(みちゆき)」をして相手役と出会ってから本筋に入り、結末も破綻(はたん)のときには追い込み・叱(しか)り留め・せりふ留め・くしゃみ留めなど、和解のときにはシャギリ留め・笑い留め・謡(うたい)留めなどの数種に分類できる。また、名乗も大名などは本舞台の正先(しょうさき)、他は名乗座でし、対話もほぼ名乗座とワキ座で行うというように類型化されている。さらに、笛座上(かみ)や大小前(だいしょうまえ)などに座っているか、後見(こうけん)座に後ろ向きに片膝(かたひざ)ついている場合には、劇の進行の外におり舞台にはいないことを意味するなど、多くの約束に支えられている。
しかし、狂言は、能の影響と舞台の制約のなかで、演出・演技を萎縮(いしゅく)させてきただけではない。道行でも能では動きがごく少ないが、狂言は舞台を一巡し、泣く型でも能がただ手のひらを目に近づけるだけであるのに対し、狂言は「エーエーエー」と泣き声を伴って写実に近づけている。また擬音を必要とする場面も多いが、用具は使わず、戸をあけるときには「サラ、サラサラサラ」、鋸(のこぎり)で竹垣をひき切るときには「ズカ、ズカズカ、ズッカリ」、樽(たる)から注ぐ酒がなくなるときには「ドブ、ドブドブドブ、ピショピショピショ」などと、役者が演技しながら自ら擬声語を発するという大胆でユーモラスな演出を創案した。つまり狂言は、演出・演技において写実と抽象とを巧みに融合し、簡潔で洗練された独自の様式化と滑稽化に成功したといえよう。
[小林 責]
狂言のなかの歌謡的要素を総称して「狂言謡(うたい)」という。狂言謡は、酒宴の余興、歓喜や高潮した感情の表現、あるいは主人の機嫌直しや酔っての放歌など、筋の展開と結び付いて謡われることが多い。しかし、歌劇的形式に従って登場謡として能のように次第(しだい)・一声(いっせい)を、またキリ(終曲部)などに叙述的内容を謡うこともある。こうして歌謡的要素を含む曲は約150曲に及び、登場人物自身の謡うのが普通であるが、約35曲では主としてキリに地謡(じうたい)が出る。
狂言謡は、小舞謡(こまいうたい)、特定狂言謡、酌謡(しゃくうたい)(小謡(こうたい)とも)に大別できる。
(1)小舞謡は、かならず「小舞」とよばれる舞を伴うもので、単独でも鑑賞できる芸術的独立性を備えている。
(2)特定狂言謡は、特定の狂言のなかで謡われる歌謡のうち、『靭猿(うつぼざる)』の猿歌、『地蔵舞(じぞうまい)』の地蔵舞などのように、舞を伴わないか、舞があっても単独で演ずる芸術性が薄く、小舞謡に編入されていない歌謡をいう。
(3)酌謡は、酒宴の場で酌に立ちながら謡うもので、酒に酔い千鳥足で歩きながらも謡う。「ざざんざ、浜松の音はざざんざ」など短い謡で、独特の曲のほか、謡曲の一部をとったものなど十数曲が用意されている。
このように本狂言には歌謡的要素が濃いので、約85曲には囃子(はやし)が加わる(ただし次第だけに囃子を必要とするというような省略可能の場合には囃子なしで演ずることが多い)。狂言の囃子は概して飄逸(ひょういつ)であり、「カケリ」「楽(がく)」など能と同じ名称がついていても手法が簡略化されているのが普通である。なお、地謡は能と異なり、囃子座の後ろに居並び、囃子方も全員床几(しょうぎ)に掛けず横向きに座って囃す。
[小林 責]
狂言は素面で演ずるのを原則とするが、特殊な役には面(おもて)を用いる。
装束(しょうぞく)は、能の絢爛(けんらん)豪華に対し、写実的、日常的で、簡素な印象が強い。太郎冠者などが着ける肩衣(かたぎぬ)には背面いっぱいに鬼瓦・鳴子(なるこ)・案山子(かかし)・大蕪(かぶ)・とんぼなどを描いた斬新(ざんしん)な図柄が多く、同じく冠者らのはく半袴(はんばかま)に散らした染め抜き模様の三本傘・挽臼(ひきうす)・干網(ほしあみ)・帆掛舟などとともに、狂言の庶民性を示している。また狂言は、女優は使わず、特殊な役以外は女面を用いないので、ビナンという約6メートルほどの白麻で頭を巻き、前で結んで顔の左右に垂らし両端を帯に挟んだ扮装(ふんそう)で、女性を表す。
装置に類する大道具は能以上に用いない。しかし、小道具の類は多用し、写実味の濃い農具(鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)・鳴子(なるこ))、酒器(杉手樽(すぎてだる)・瓢箪(ひょうたん))、荒物(あらもの)(俎(まないた)・包丁)などは狂言の庶民性を反映している。他方、『牛馬(ぎゅうば)』で竹杖(たけづえ)の先に結んだ垂(たれ)(頭髪の一種)の黒が牛で、白が馬を、『雁大名(がんだいみょう)』で羽箒(はぼうき)が雁を、『昆布売(こぶうり)』で梨子打烏帽子(なしうちえぼし)が昆布を表すといった象徴的な例もみいだすことができ、また葛桶(かずらおけ)が床几(しょうぎ)として使われるだけでなく、『茶壺(ちゃつぼ)』で茶入れ、『柿(かき)山伏』で柿の木、そして蓋(ふた)が杯(さかずき)、あるいは扇が閉じて太刀(たち)・鋸(のこぎり)・石臼(いしうす)、開いて杯・銚子(ちょうし)・戸などに巧みに転用されているのも注目される。
[小林 責]
狂言は日本で初めて成立した笑いの芸術として、後代の芸能や文学に多くの影響を与えている。
芸能として狂言の血をもっとも色濃く受け継いでいるのは歌舞伎である。歌舞伎の創始には小さな猿楽の座の狂言方が参加し、江戸前期には本狂言から多くの歌舞伎劇が脚色された。もっとも、そのほとんどはその後上演されなくなり、江戸後期以後はもっぱら歌舞伎舞踊に仕組まれて、三番叟からつくられた『再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)』(舌出し三番(さんば))・『柳糸引御摂(やなぎのいとひくやごひいき)』(操三番(あやつりさんば))、『釣狐』からの『寄罠娼釣髭(てくだのわなきゃつをつりひげ)』(朝比奈釣狐)・『釣狐廓掛罠(つりぎつねさとのかけわな)』(廓(くるわ)釣狐)、『靭猿(うつぼざる)』からの『花舞台霞猿曳(はなぶたいかすみのさるひき)』(靭猿)などがいまに残された。また明治以降は松羽目物(まつばめもの)の形式で書かれた福地桜痴(おうち)作『素襖落(すおうおとし)』『二人袴(ににんばかま)』、岡村柿紅(しこう)作『身替座禅(みがわりざぜん)』『棒(ぼう)しばり』『茶壺』『悪太郎』などが、現在歌舞伎舞踊のレパートリーとなっている。音曲方面でも、近松門左衛門が狂言の詞章を浄瑠璃(じょうるり)に活用したのをはじめ、長唄(ながうた)・地歌(じうた)などにも本狂言のテーマや小舞謡の歌詞をとった曲が少なくない。文学方面では、室町後期に編まれた俳諧連歌(はいかいれんが)集である『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』『独吟千句』や、江戸時代に入って俳句や川柳(せんりゅう)に狂言の文句を借りたものが見当たる。そのほか、小咄(こばなし)や落語に狂言種のものが多いのは当然であるが、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『道中膝栗毛(どうちゅうひざくりげ)』は狂言の趣向を利用した部分が約30か所に及び、その影響が非常に強い。
そして、第二次大戦後、狂言がもっとも刺激を与えたのは新劇である。狂言の簡潔な表現および狂言師の的確な演技と明晰(めいせき)な発声が注目され、近年では多くの新劇俳優の養成所が狂言をカリキュラムに組み込んでいる。また1957年(昭和32)のパリ文化祭への能楽参加以来、海外の演能には狂言がかならず同行しているが、63年の野村万蔵家によるアメリカ公演以来、各家単独の公演も世界全域に及んでいる。さらに近年では、講義あるいは演技指導、ワークショップなどによる海外普及も活発であり、行き詰まった欧米諸国の演劇界に、その影響が定着しつつある。
[小林 責]
『三宅藤九郎著『狂言の見どころ』(1964・わんや書店)』▽『小林責著『狂言をたのしむ』(1976・平凡社)』▽『古川久・小林責他編『狂言辞典 事項編・資料編』(1976、1985・東京堂出版)』▽『小林責監修、油谷光雄編『狂言ハンドブック』(1995・三省堂)』▽『『能狂言』上中下(大蔵流台本、1942~45・岩波文庫)』▽『『日本古典全書 狂言集』上中下(鷺流台本、1953~56・朝日新聞社)』▽『『狂言集成』(和泉流台本、1974・能楽書林)』▽『『日本古典文学大系42・43 狂言集』上下(大蔵流台本、1960、61・岩波書店)』▽『『日本古典文学全集35 狂言集』(大蔵流台本、1972・小学館)』