花房 義質
ハナブサ ヨシモト
明治期の外交官,子爵 枢密顧問官;駐朝鮮公使;駐ロシア公使;日本赤十字社社長。
- 生年
- 天保13年1月1日(1842年)
- 没年
- 大正6(1917)年7月9日
- 出生地
- 備前国岡山(岡山県岡山市)
- 別名
- 幼名=寅太郎,号=眠雲,長嶺居士
- 経歴
- 岡山藩の儒者について漢籍を学び、緒方洪庵門下で蘭学を学ぶ。慶応3年欧米に留学。帰国後、明治2年外国官御用命掛となり、外務大丞など歴任し、清国や朝鮮に駐在。5年朝鮮にて日韓貿易の交渉にあたる。6年ロシア公使館書記官として樺太千島交換条約締結にも携わる。13年朝鮮弁理公使。15年壬午軍乱に際し、全権として済物浦条約を結ぶ。のちロシア特命全権公使、農商務次官、宮中顧問官、宮内次官などを歴任し、44年枢密顧問官となる。また大正元年日本赤十字社第3代社長に勅任された。明治40年子爵。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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花房義質 (はなぶさよしもと)
生没年:1842-1917(天保13-大正6)
外交官。子爵。岡山の出身。岡山学校,適塾に学び,1867年(慶応3)から1年間欧米を外遊。明治維新後,対朝鮮外交が対馬藩から明治政府に移管された際,72年に外務大丞として釜山の草梁倭館を接収した。77-79年に元山開港問題,80-82年に仁川開港問題にあたった。82年7月ソウルで壬午軍乱に遭遇,同年8月に,軍乱の事後処理としての済物浦条約および日朝修好条規続約を,金弘集らとの間で調印した。江戸時代の交隣関係から明治以降の近代国際法的関係へという,日本の対朝鮮外交の転換期にあって,その実務を外交の現場で担った。
執筆者:原田 環
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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花房 義質
ハナブサ ヨシモト
- 肩書
- 枢密顧問官,駐朝鮮公使,駐露公使
- 生年月日
- 天保13年1月1日(1842年)
- 出生地
- 備前国岡山(岡山県岡山市)
- 経歴
- 岡山藩の儒者について漢籍を学び、緒方洪庵門下で蘭学を学ぶ。慶応3年欧米に留学。帰国後、外国官御用命掛となり、外務大丞など歴任し、清国や朝鮮に駐在。明治5年朝鮮にて日韓貿易の交渉にあたる。6年ロシア公使館書記官として樺太千島交換条約締結にも携わる。13年朝鮮弁理公使。15年壬午軍乱に際し、全権として済物浦条約を結ぶ。のちロシア特命全権公使、農商務次官、宮中顧問官、宮内次官などを歴任し、44年枢密顧問官となる。また日本赤十字社社長も務めた。
- 没年月日
- 大正6年7月9日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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花房義質 はなぶさ-よしもと
1842-1917 明治時代の外交官。
天保(てんぽう)13年1月1日生まれ。花房端連(まさつら)の長男。もと備前岡山藩士。緒方洪庵(こうあん)にまなぶ。欧米に外遊し,明治2年外国官御用掛となる。公使として朝鮮,ロシアとの外交につくす。のち農商務次官,宮内次官,枢密顧問官をへて大正元年日本赤十字社社長。大正6年7月9日死去。76歳。幼名は虎太郎。号は眠雲,長嶺。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の花房義質の言及
【三言二拍】より
…日本には中国での刊行後まもなく舶載され,江戸時代の文学,特に[読本](よみほん)の成立に大きな影響を与えた。読本の第一作と目される都賀庭鐘の《[英草紙](はなぶさぞうし)》は〈三言〉などより9編を翻案したものである。【村松 暎】。…
※「花房義質」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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