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済物浦条約 さいもっぽじょうやく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

済物浦条約
さいもっぽじょうやく

壬午の変 (→京城事変 ) の善後処置として日本と朝鮮との間に締結された条約。 1882年7月,ソウルで壬午の変が起り,日本公使館が襲撃され,日本人の死傷者十数名を出し,花房義質公使らは日本に逃れた。日本政府は清国の調停申し出を拒絶し,軍隊の圧力を背景にして花房公使に折衝を行わせた。清国もまたソウルに軍隊を送ったが,日本との開戦を望まず,大院君をテンチン (天津) に連れ去った。その結果日鮮間に交渉が成立し,同8月 30日,済物浦条約6ヵ条と日鮮修好条規続約2ヵ条が調印された。済物浦条約の内容は凶徒の処罰,賠償金の支払い,日本公使館に護衛兵をおくこと,謝罪使節を派遣することなどであり,日鮮修好条規続約の内容は,ウォンサン (元山) ,プサン (釜山) ,インチョン (仁川) 各港の間行里程を拡張し,ヤンファチン (楊花鎮) を開市場とすることなどであった。

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百科事典マイペディアの解説

済物浦条約【さいぶっぽじょうやく】

済物浦(さいもっぽ)条約

済物浦条約【さいもっぽじょうやく】

1882年壬午(じんご)軍乱後,日本・朝鮮間に締結された条約。日本は軍乱の賠償金,公使館護衛としての軍隊駐留権,兵営設置費・修理費の朝鮮側負担などの権益を獲得した。これを機に清国も朝鮮に軍隊を派遣し,宗主権を確保しようとしたので,以後朝鮮における日清対立が強まった。

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大辞林 第三版の解説

さいもっぽじょうやく【済物浦条約】

壬午じんご軍乱の善後処置のため、1882年(明治15)朝鮮の済物浦(今の仁川インチヨン)で日本と朝鮮との間に結ばれた条約。 → 壬午軍乱

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

済物浦条約
さいもっぽじょうやく

1882年(明治15)8月30日、朝鮮駐在公使花房義質(はなぶさよしただ)が朝鮮政府代表李裕元(りゆうげん)、金宏集(きんこうしゅう)と済物浦(現仁川(じんせん))で結んだ壬午(じんご)軍乱の善後約定。加害者処罰、損害賠償および公使館護衛のための兵員駐在、国書による謝罪を決めたほか、元山(げんざん)、仁川、釜山(ふざん)における日本権益拡大や日本外交官の内地遊歴を認めた修好条規を定めた。これは日本が海外に駐兵権を得た最初の条約である。朝鮮では日本の駐兵に対抗して清(しん)軍駐在および宗主権強化が図られ、親日派の独立党と親清派の事大党との相克が激化し、甲申(こうしん)政変の遠因が醸成された。[藤村道生]
『田保橋潔著『近代日鮮関係の研究』復刻版(1940・宗高書房)』

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世界大百科事典内の済物浦条約の言及

【壬午軍乱】より

…82年8月,清は宗属関係を明記した商民水陸貿易章程を朝鮮と結ぶとともに,大院君を清の保定に幽閉し,軍隊を漢城に駐留させた。同月,日本は済物浦条約と修好条規続約を結び,前者によって公使館に警備兵を配置する権利を得た。この暴動の結果,朝鮮に対する清の宗主権が強まり,甲申政変の遠因となった。…

【朝鮮駐劄軍】より

…日露戦争開戦直後に編成され,日韓併合を経て日本による植民地支配の時期を通じて朝鮮に駐屯した日本の陸軍。日朝修好条規締結(1876)後,日本の陸軍部隊が朝鮮に常駐したのは,1882年壬午軍乱後結ばれた済物浦条約にもとづき,ソウルに駐屯した守備隊をはじめとする。甲申政変の翌年,85年に日清間で結ばれた天津条約で,日清両軍は朝鮮から撤退したが,日清戦争で日本軍が大挙朝鮮に出兵し,戦争終了後も公使館守備隊が駐屯,さらに96年の日露協定(小村=ウェーバー覚書)で,ソウル,釜山,元山および京釜間電信線保護のため日本軍の常駐が約され,この状況が日露戦争直前まで続いた。…

※「済物浦条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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