花野井村(読み)はなのいむら

日本歴史地名大系 「花野井村」の解説

花野井村
はなのいむら

[現在地名]柏市花野井・松葉町まつばちよう六丁目など

大室おおむろ村の南東、利根川の右岸に位置し、同川との間には流作場が広がる。村内を成田へ至る道が通る。東は布施ふせ村、西方は高田台たかだだい牧と接し、牧境に花野井木戸があった。集落の中心は長泉ちようせん寺のある字はらであった。寛永二年(一六二五)の本多正貫領知目録写に村名がみえ、高一四七石余、旗本本多領。以後の領主の変遷は船戸ふなと村に同じ。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二二八石余。享保一五年(一七三〇)高田台牧付の原地を開発した高六六石余・反別三二町余の新田が幕府領として高入れされた(嘉永四年「高田台牧土手間数勢子人数等控帳」川上家文書)。元文三年(一七三八)の利根川通五ヶ村秣場流作場書上帳(吉田家文書)によると当村の秣場は一一八町余、野永として五貫六〇〇文を納め、うち四三町余は駿河田中藩が享保一〇年に開発を許可、流作田九町余・流作畑一町九反余が開かれたが、残りは元文三年時点では秣場のままであった。旧高旧領取調帳では田中藩領高三七二石余・幕府領高六六石余。

利根川河川敷の秣場については対岸戸頭とがしら(現茨城県取手市)との間で寛永六年と同一八年に争いを起こしている。また寛文六年(一六六六)には当村と若柴わかしば村・高田たかた村との間で若柴村の草場をめぐっての争いもあった(吉田家文書など)


花野井村
はなのいむら

[現在地名]美野里町花野井

東南は中台なかだい村。中世は大掾氏、天正一八年(一五九〇)より佐竹氏の支配下にあった。慶長七年(一六〇二)秋田氏領を経て正保二年(一六四五)天領となり、同三年の常陸国茨城郡宍戸領花野井村検地帳(島田家文書)では村高一三六石余。同四年の年貢割付帳(同文書)には「花野井小曾納村」と記され、生園おそのう郷の本郷小曾納おそのう村と同村であった。「新編常陸国誌」に「正保以後分レテ二村トナル」とみえ、万治三年(一六六〇)分村し、花野井村は二給となり、高八九石余は旗本曾我氏知行、残りは土浦藩領となる。土浦藩領は寛文九年(一六六九)天領となり、天和二年(一六八二)宍戸藩領となる。元治元年(一八六四)一時天領となるが、のち再び宍戸藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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