日本の城がわかる事典 「若神子城」の解説 わかみこじょう【若神子城】 山梨県北杜市(旧北巨摩郡須玉町)にあった平山城(ひらやまじろ)。城は須玉の市街を見下ろす高台の上につくられていた。平安時代末期に、後三年の役で活躍した源義家の三男で、甲斐武田氏の祖の新羅三郎義光(源義光)が甲斐守に任ぜられた際に、当地に居館をつくったといわれているが、くわしいことはわかっていない。このことにより、旧須玉町は武田氏発祥の地とされている。甲信国境の諏訪口、佐久口の近くにあった若神子城は、戦国時代には武田氏の信濃侵攻の拠点として使われた。武田信玄は信濃攻略のために「棒道」と呼ばれる軍用道路を整備したが、若神子城はその起点となった。信玄は、この城を拠点に1542年(天文11)の伊奈高遠の高遠頼継攻め、1543年(天文12)の佐久の大井貞清攻め、1550年(天文19)の林城(長野県松本市、小笠原長時の居城)攻め、1553年(天文22)の塩田城(長野県上田市)の村上義清への攻撃などを行っている。1582年(天正10)の織田信長の死後、甲斐では、徳川家康と北条氏直による武田氏旧領の争奪戦(天正壬午の乱)が行われたが、徳川家康が新府城(韮崎市)を本陣としたのに対し、北条氏直は若神子城を本陣とした。氏直は若神子城の修築・整備に着手し、このときにつくられた薬研堀の遺構が発見されている。その後、徳川氏と北条氏の間に和議が成立して、甲斐は徳川氏の領地として確定したが、和議成立の後に若神子城は廃城になったと考えられている。かつての若神子城は大城、北城、南城の3つの城域から構成されていたが、大城のあった場所は現在、ふるさと公園として整備されている。園内には曲輪(くるわ)、空堀の遺構が残っているほか、江戸期の絵図面をもとに復元されたつるべ式狼煙台がある。この狼煙台は信玄が整備したもので、川中島の危急が約2時間で甲府に伝えられたといわれる。なお、同公園は桜とツツジの名所として、また富士山や茅ヶ岳を遠望できる景勝地として知られている。JR中央本線日野春駅から徒歩30分。またはJR中央本線韮崎駅からバス、若神子上下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報