コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

英照皇太后 えいしょうこうたいごう

6件 の用語解説(英照皇太后の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

英照皇太后

孝明天皇の皇后。京都生。関白九条尚忠の娘、母は後梅園院経子。名は夙子(あさこ)。嘉永元年(1848)孝明天皇の女御として入内。有職故実に精通し、読書は古典・国史をはじめ西洋理学の訳書に及ぶ。慶応3年(1867)睦仁親王(明治天皇)の践祚によって皇太后となり仙洞御所に移る。のち東京赤坂離宮青山御所に住む。明治30年(1897)歿、65才。

出典|(株)思文閣
美術人名辞典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

えいしょう‐こうたいごう〔エイセウクワウタイゴウ〕【英照皇太后】

[1833~1897]孝明天皇女御明治天皇の嫡母。名は夙子(あさこ)。九条尚忠の第六女。明治元年(1868)皇太后宣下

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

英照皇太后 えいしょうこうたいごう

1835*-1897 幕末,孝明天皇の皇后。
天保(てんぽう)5年12月13日生まれ。九条尚忠(ひさただ)の6女。弘化(こうか)2年統仁(おさひと)親王(孝明天皇)の妃,3年天皇即位後女御となる。万延元年祐宮(さちのみや)(明治天皇)の立太子のとき,実母と公称され(生母は中山慶子),慶応4年皇太后となった。明治30年1月11日死去。64歳。名は夙子(あさこ)。

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

英照皇太后

没年:明治30.1.11(1897)
生年:天保5.12.13(1835.1.11)
幕末明治期の孝明天皇女御。九条尚忠の娘,母は南大路菅山。はじめ基君,のち夙子と称した。弘化2(1845)年皇太子統仁親王(孝明天皇)の御息所に決まり,翌3年仁孝天皇死去により女御と称し,嘉永1(1848)年従三位に叙せられ,次いで入内し女御宣下があった。6年正三位に昇叙,准三宮宣下を受け,万延1(1860)年祐宮(明治天皇)が儲君となると同宮を実子とした。この間2皇女を生んだが夭折。明治1(1868)年皇太后に冊立され大宮と呼ばれ,5年より東京に住み,6年青山御所に移った。皇后と共に宮廷の近代化に努めた。死後英照皇太后と諡号,京都泉涌寺に葬られた。

(上野秀治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
朝日日本歴史人物事典について | 情報

大辞林 第三版の解説

えいしょうこうたいこう【英照皇太后】

1833~1897) 明治天皇の嫡母。名は夙子あさこ。九条尚忠の娘。孝明天皇皇太子時代に御息所。1868年(明治1)皇太后宣下。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

英照皇太后
えいしょうこうたいごう
(1834―1897)

孝明(こうめい)天皇女御(にょうご)。名は夙子(あさこ)。初め基君(のりきみ)。九条尚忠(ひさただ)の六女。天保(てんぽう)5年12月13日生まれ。1845年(弘化2)皇太子統仁(おさひと)親王(後の孝明天皇)の御息所(みやすどころ)に内定、その年、親王との年齢差「中四つ」を嫌って、1年早い天保4年を公式の生年とした。天皇即位後の48年(嘉永1)12月に入内(じゅだい)、女御宣下(せんげ)を受けた。60年(万延1)7月、祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)の立太子のとき、嫡母(ちゃくぼ)とされたが、祐宮の実母は中山慶子(よしこ)である。66年(慶応2)12月孝明天皇と死別、68年3月皇太后の宣下を受ける。72年(明治5)東京に移り、青山御所にあって、宮中で殖産の一つとしての養蚕を率先して行った。明治30年1月11日死去。英照皇太后は死後の追号で、墓所は孝明天皇陵に近い京都泉涌(せんにゅう)寺の後月輪東北(のちのつきのわのひがしきた)陵。[河内八郎]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone

英照皇太后の関連情報