英照皇太后(読み)えいしょうこうたいごう

精選版 日本国語大辞典 「英照皇太后」の意味・読み・例文・類語

えいしょう‐こうたいごう エイセウクヮウタイゴウ【英照皇太后】

孝明天皇皇后九条尚忠の六女。名は夙子(あさこ)弘化二年(一八四五御息所となり、翌年天皇即位に伴い入内(じゅだい)。万延元年(一八六〇明治天皇嫡母とされる。明治元年一八六八皇太后天保四~明治三〇年(一八三三‐九七

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デジタル大辞泉 「英照皇太后」の意味・読み・例文・類語

えいしょう‐こうたいごう〔エイセウクワウタイゴウ〕【英照皇太后】

[1835~1897]孝明天皇女御明治天皇の嫡母。名は夙子あさこ。九条尚忠の第六女。明治元年(1868)皇太后宣下

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「英照皇太后」の意味・わかりやすい解説

英照皇太后
えいしょうこうたいごう
(1834―1897)

孝明(こうめい)天皇女御(にょうご)。名は夙子(あさこ)。初め基君(のりきみ)。九条尚忠(ひさただ)の六女。天保(てんぽう)5年12月13日生まれ。1845年(弘化2)皇太子統仁(おさひと)親王(後の孝明天皇)の御息所(みやすどころ)に内定、その年、親王との年齢差「中四つ」を嫌って、1年早い天保4年を公式の生年とした。天皇即位後の1848年(嘉永1)12月に入内(じゅだい)、女御宣下(せんげ)を受けた。1860年(万延1)7月、祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)の立太子のとき、嫡母(ちゃくぼ)とされたが、祐宮の実母中山慶子(よしこ)である。1866年(慶応2)12月孝明天皇と死別、1868年3月皇太后の宣下を受ける。1872年(明治5)東京に移り、青山御所にあって、宮中殖産の一つとしての養蚕を率先して行った。明治30年1月11日死去。英照皇太后は死後の追号で、墓所は孝明天皇陵に近い京都泉涌(せんにゅう)寺の後月輪東北(のちのつきのわのひがしきた)陵。

[河内八郎]


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朝日日本歴史人物事典 「英照皇太后」の解説

英照皇太后

没年:明治30.1.11(1897)
生年:天保5.12.13(1835.1.11)
幕末明治期の孝明天皇女御。九条尚忠の娘,母は南大路菅山。はじめ基君,のち夙子と称した。弘化2(1845)年皇太子統仁親王(孝明天皇)の御息所に決まり,翌3年仁孝天皇死去により女御と称し,嘉永1(1848)年従三位に叙せられ,次いで入内し女御宣下があった。6年正三位に昇叙,准三宮宣下を受け,万延1(1860)年祐宮(明治天皇)が儲君となると同宮を実子とした。この間2皇女を生んだが夭折。明治1(1868)年皇太后に冊立され大宮と呼ばれ,5年より東京に住み,6年青山御所に移った。皇后と共に宮廷の近代化に努めた。死後英照皇太后と諡号,京都泉涌寺に葬られた。

(上野秀治)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「英照皇太后」の解説

英照皇太后 えいしょうこうたいごう

1835*-1897 幕末,孝明天皇の皇后。
天保(てんぽう)5年12月13日生まれ。九条尚忠(ひさただ)の6女。弘化(こうか)2年統仁(おさひと)親王(孝明天皇)の妃,3年天皇即位後女御となる。万延元年祐宮(さちのみや)(明治天皇)の立太子のとき,実母と公称され(生母は中山慶子),慶応4年皇太后となった。明治30年1月11日死去。64歳。名は夙子(あさこ)。

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