茂田村(読み)もだむら

日本歴史地名大系 「茂田村」の解説

茂田村
もだむら

[現在地名]君田村茂田

石原いしはら村の北、周囲を比高三〇〇メートル前後の判官はんがん(七〇七メートル)かんむり(八四四メートル)などに囲まれた擂鉢状の地に立地。わずかに茂田川沿いに石原村に通ずる道と、東の山越櫃田ひつた村に通ずる道があるにすぎない。

この辺りは三次みよし郡でも最も寒冷の地で、「国郡志下調書出帳」によると村は「雪抔毎歳三尺余積、大雪ト申ス時ハ五尺余積」り、「麦抔雪ニ腐リ出来不宜」とされ、耕地も少なく、明暦三年(一六五七)三次藩の行った検地では、田一四町余で高一八九石余、畑一一町余で高四九石余、その他合計二四三石余の小村である。

茂田村
もだむら

[現在地名]八東町茂田

小別府こべふ村の八東川対岸に位置する。拝領高は二四〇石余。本免五ツ。西方新田の枝郷横田よこた村があったが、享保一九年(一七三四)以前に領内限りの一村として分離、独立。同年の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると茂田村の高一四〇石余、竈数三三。「因幡志」では家数三〇、物産は大竹・莨。産土神は牛頭天王・八大荒神。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一九二石余、竈数三〇。乾氏の給地があった(給人所付帳)。文化一二年(一八一五)、文政一三年(一八三〇)に八東川の氾濫による水害があり、検分のための水奉行派遣を願出ている(在方諸事控)

茂田村
もだむら

[現在地名]下館市茂田

小貝こかい川左岸、真壁まかべ街道沿いにあり、西は成田なりた村。慶長二年(一五九七)真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)に「毛田村(中略)合九畝六歩、右之麦九斗二升、此内三ケ二引、残而三斗七合御定納」とある。江戸中期以後は天領で元禄郷帳の村高は六一五石余であるが、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には、村高九七〇・四八六石(うち高五石は東光院朱印地)、鎮守神明、家数三六、馬六、川崎平右衛門支配所とあり、村高が増加する。しかし天明四年(一七八四)の名主六郎兵衛の訴状(下館市史)には、家数一〇〇余、人別四〇〇余を抱えた当村が打続く天災凶作のため家数五〇、人別二四〇に半減とあり、生活困窮のため救済を求めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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