茗荷村(読み)みようがむら

日本歴史地名大系 「茗荷村」の解説

茗荷村
みようがむら

[現在地名]瀬戸田町名荷みようが

生口いくち島の東北端に位置し、西ははやし村、南は山を隔てて洲江すのえ(現因島市)に境し、東と北は海に臨んで、因島(現因島市)佐木さぎ(現三原市)に対する。「芸藩通志」に「広三十八町、袤卅五町」とある。「国郡志下調書出帳」に記す寛永一五年(一六三八)の地詰では、田畑畝数四五町七反二畝一八歩、村高は四五九石三斗。同書出帳によると元禄元年(一六八八)の地詰で一反六畝一五歩、高六斗六升、宝暦一〇年(一七六〇)の地詰で一反一畝二一歩、高六斗六升の新開がみられる。


茗荷村
みようがむら

[現在地名]織田町茗荷

越知おち山の西南山中、標高四二〇メートル前後の高所に立地し、東南は花立はなたて峠を越えて笈原おいはら村に至る。永享元年(一四二九)三月一八日付の越知山四方境状(越知神社文書)に「みようかおもてハゑすをゝ境に」、同日付山桙注文(同文書)にも「一ミやうかの坂中ニ 壱本」とみえるのが早い。文明三年(一四七一)八月日付山方分定書(同文書)に「ミやうかむら分 代三貫文はる秋冬なつ也、入木廿そく月別也。


茗荷村
みようがむら

[現在地名]矢祭町茗荷

内川うちかわ村の北西、矢祭川の支流茗荷川(八溝川)流域の山間地に立地。しおがい歯朶平しだだいら・中茗荷・上茗荷の四ヵ坪からなる。名下村とも記す(正保郷帳・元禄郷帳など)正保郷帳によると高一一四石余、うち田四九石余・畑六五石余。元禄郷帳では高一二七石余、枝郷の志田平しだだいら(歯朶平)村の高八石余。天保九年(一八三八)の村明細帳(鈴木家文書)によれば高一四〇石余、家数三〇・人数二〇〇。


茗荷村
みようごうむら

[現在地名]奈良市茗荷みようが

矢田原やだわら村の東にある。「春日社記録」中臣祐賢記の文永四年(一二六七)六月二一日条に「茗荷宇」とある。矢田原村からの分村。元禄郷帳の村高は二三三・二六八石。「ミヤウゴウ」村と訓注する。「宗国史」に戸口二六軒一一〇人、神社は春日・天満宮・八王子弁財天寺院は惣堂とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android