張良(読み)チョウリョウ

デジタル大辞泉 「張良」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐りょう〔チヤウリヤウ〕【張良】

[?~前168]中国、前漢創業の功臣。新鄭(河南省)の人。あざな子房。韓の貴族の出身で、始皇帝の暗殺に失敗後、劉邦の謀臣となって秦を滅ぼし、さらに鴻門こうもんの会では劉邦を危急から救った。漢の統一後は留侯に封じられた。
謡曲。四番目五番目物観世信光作。黄石公が川に落としたくつを漢の張良が取って履かせ、人柄を認められて太公望の兵法の奥義を授かる。

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精選版 日本国語大辞典 「張良」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐りょうチャウリャウ【張良】

  1. [ 一 ] 中国、漢初の功臣。字(あざな)は子房。高祖の作戦中枢となり、蕭何(しょうか)韓信とともに漢創業の三傑といわれた。秦の始皇帝の暗殺に失敗して逃亡中、橋の上で黄石(こうせき)老人に太公望の兵法の書を授かったという話は著名。前一六八年没。
  2. [ 二 ] 謡曲。各流。四・五番目物。観世小次郎信光作。漢の高祖の軍師となった張良が黄石公の川に落とした沓(くつ)を取って、その人柄を認められ、ついに兵法の奥義を授かる。

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改訂新版 世界大百科事典 「張良」の意味・わかりやすい解説

張良 (ちょうりょう)
Zhāng Liáng
生没年:?-前168

中国,漢の高祖の功臣。字は子房。その家柄は代々韓の宰相であった。韓が秦に滅ぼされると,その仇を報じようとして,巡幸中の始皇帝を博浪沙(はくろうさ)(河南省陽武県の南)で襲撃するも失敗。秦の追捕をのがれて下邳(かひ)(江蘇省邳県の南)に隠れた。このとき黄石老人から太公望呂尚(りよしよう)の兵法書を授かったといわれる。陳勝・呉広の挙兵に呼応してたち上がり,劉邦に従ってその軍師となった。秦軍を破って関中に入り,秦都咸陽をおとし,有名な鴻門(こうもん)の会では劉邦を危地から救い,さらに項羽を追撃して自害に追いやるまで,彼はつねに劉邦の帷幕(いばく)にあって奇謀をめぐらし,漢を勝利にみちびいた。漢の天下平定にともないその功績によって留侯に封ぜられたが,そののちも長安に都すべきことを進言したり,蕭何(しようか)を相国に推したり,また恵帝の擁立に努めるなど,漢帝国創建に果たした役割は大きい。死後,文成侯と諡(おくりな)された。
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張良 (ちょうりょう)

能の曲名。四・五番目物。観世信光(のぶみつ)作。シテは黄石公(こうせきこう)。漢の高祖に仕える張良(ワキ)は,夢の中で不思議な老人に出会い,5日後に下邳(かひ)の土橋で兵法を伝授してもらう約束をする。下邳に出向くと,老人(前ジテ)はすでに来ていて遅参を咎(とが)め,さらに5日後に来いといって消え失せる。張良が今度は早暁に行くと,威儀を正した老人が馬でやって来て黄石公(後ジテ)と名のり,履いていた沓(くつ)を川へ蹴落とす。張良はすかさず飛び下りて拾おうとするが,激流に阻まれて果たせない(〈中ノリ地〉)。そこへ大蛇(ツレ)が現れて沓を拾い,いどみかかるが,張良は剣を抜いて沓を奪い,黄石公に履かせる(〈早笛(はやふえ)・ノリ地〉)。その働きを見て,黄石公は秘伝巻物を張良に与える。大蛇は観音の仮の姿であった。また,黄石公は遥かの高山に上り,金色に光り輝く黄石と化した。眼目の中ノリ地をはじめワキの見せ場が多く,ワキ方の重い伝授物となっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「張良」の意味・わかりやすい解説

張良(能)
ちょうりょう

能の曲目。五番目物。五流現行曲。観世(かんぜ)小次郎信光(のぶみつ)作。漢の高祖の臣下張良(ワキ)は夢のなかで老翁に会い、馬上から落とした沓(くつ)を拾って履かせたことから、兵法伝授を約された。半信半疑で出かけると、老翁(前シテ)は張良の遅刻を怒り、再会を試すといって消えていく。後日、張良は同じ橋のたもとで威風正しい黄石公(こうせきこう)(後(のち)シテ)と会い、川に落とされた沓を拾おうとするものの、大蛇(ツレ)が現れて妨げるが、剣を抜いて沓を奪い、黄石公に履かせる。試練に合格した張良は、兵法の奥義を授けられ、大蛇は守護神になろうと消える。激流に沓を拾う演技が見もので、後見の投げる沓の落ちた位置によって臨機に演技せねばならず、ワキの重い習いであり、ワキ方にとっての登竜門の能である。

増田正造


張良(中国)
ちょうりょう
(?―前168)

中国、漢の高祖劉邦(りゅうほう)の功臣。祖父、父は韓(かん)王の宰相であり、韓の貴族の家に生まれる。紀元前230年、韓が秦(しん)に滅ぼされると、韓のために家財を費やして始皇帝の暗殺を企てるが、失敗して下邳(かひ)(江蘇(こうそ)省)の地に逃れた。のちに沛公(はいこう)劉邦が挙兵すると、逃亡中に橋上で会った老父から学んだ太公望の兵法を説いて従い、影の画策者として沛公軍を支えた。項羽(こうう)との「鴻門(こうもん)の会」において沛公を危急から救ったことはよく知られている。その後、留侯に封ぜられ、沃野(よくや)千里の要害の地である関中に都を置くことを献策する。司馬遷(しばせん)の『史記』には、蕭何(しょうか)、曹参(そうさん)、陳平、周勃(しゅうぼつ)らとともに開国の功臣として別格に扱われ、諸侯の系譜を述べた「世家(せいか)」に伝記が収められている。

[鶴間和幸]

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百科事典マイペディア 「張良」の意味・わかりやすい解説

張良【ちょうりょう】

中国,漢朝建国の功臣。韓の貴族の出身。亡国の恨みをはらそうとして秦の始皇帝を襲い失敗。黄石老人より兵法の書を与えられたという。劉邦(高祖)の挙兵に従う。鴻門(こうもん)の会の危難から劉邦を救った。関中に都を置き蕭何(しょうか)を宰相にすることを献策。漢統一後は留侯に封ぜられた。
→関連項目六韜三略

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張良」の意味・わかりやすい解説

張良
ちょうりょう
Zhang Liang; Chang Liang

[生]?
[没]恵帝6(前189)
中国,前漢の高祖の功臣。字は子房,諡は文成。戦国のの世族の子孫で,韓がに滅ぼされた仇を討とうとして,博浪沙で始皇帝を襲撃したが失敗し,下ひ (かひ) に隠れ黄石公から兵法を学んだ。秦末の反乱のときに百余人を従えて劉邦のもとにいたり,将としてその創業を助けた功によって留侯に封じられた。一説に前 186年あるいは前 180年没という。

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旺文社世界史事典 三訂版 「張良」の解説

張 良
ちょうりょう

?〜前168
韓信 (かんしん) ・蕭何 (しようか) と並ぶ前漢創業の功臣
字 (あざな) は子房。韓の貴族の出身。始皇帝の暗殺失敗後,劉邦 (りゆうほう) (高祖)に仕えて秦を滅ぼし,劉邦と項羽の争覇戦では,縦横の政治的・戦略的手腕を発揮して劉邦を勝利に導いた。漢の統一後,諸侯を封建し,都を長安に定めるなど,多くの功によって万戸の侯に封ぜられたがこれを受けず,退いて終わりを全うした。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「張良」の解説

張良
(通称)
ちょうりょう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
張良兵書賜
初演
明治19.12(東京・新富座)

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世界大百科事典(旧版)内の張良の言及

【能装束】より

…たとえば,《翁》や三番目物のシテには白を用い,太刀持や立衆など身分の低い役柄には萌葱を用いる。ワキは浅葱(あさぎ)を用いるのが普通だが,《張良(ちようりよう)》などワキのとくに活躍する能では赤を用いたりする。
[狂言装束]
 狂言の装束も,上衣,着付,袴の類などに分けられること,各種の扮装類型のあることなど基本的な性格は能と共通している。…

※「張良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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