荒島村(読み)あらしまむら

日本歴史地名大系 「荒島村」の解説

荒島村
あらしまむら

[現在地名]安来市荒島町・西荒島町にしあらしまちよう

東赤江ひがしあかえ村の西に位置し、山陰道が通る。南は西赤江村・久白くじら村、西は日白ひじら村および意宇いう意東いとう(現東出雲町)、北は中海に面する。荒島は神威によって海中から突如噴上がった新島という伝承がある(荒島八幡宮文書)。当地南半部は丘陵地帯で仏山ほとけやま古墳・大成おおなり古墳・造山つくりやま古墳群・塩津山しおつやま一号墳・塩津一号墓などがあり、弥生時代後期以降の有力首長墓の集中地帯となっている。

〔中世〕

荒島はもと比知良ひじら保の領域内であったが、河口部・海岸部の開発などにともなって戦国期に新しく独立し、一つの所領単位になったものと推定される。永禄一二年(一五六九)七月二八日の天野隆重・新藤就勝連署状(竹屋文書)で、富田とだ八幡宮(現広瀬町)の神主田辺源大夫は毛利氏から荒島八幡や吉田よしだ八幡・宇賀うか庄宮など能義のぎ郡内五ヵ所の神社を与えられ、祭礼・社頭建立などを行うよう命じられた。荒島八幡は当時この地域周辺で大きな勢力を誇っていた鎮守神で、毛利氏はその祭祀権を掌握することによって地域支配の安定を図ろうとしたものと考えられる。同年一二月一九日には富田城(現広瀬町)城番の毛利(富田)元秋が荒島三〇〇貫の地を与えられた(「毛利元就・同輝元連署充行状」閥閲録)。その後まもなくその内の一部が安芸厳島神社に寄進されたようで、元亀二年(一五七一)一一月二三日の能義郡荒島内打渡坪付(厳島野坂文書)に「能義郡十三カ村荒嶋」の田畠五町九反大が厳島社領としてみえる。この坪付によると地内には、かけ岩ノ前白岩・うち町・小山根・わしめ・ひかしの小山・青木ノ前・大廻・よこまくら・たれ清水ゑほうの坊・丸山のまへ・松ノまへ・なわてはさミ・山まわり・古藤田・三反田・中島・にしの小山・宮ノわき・竹ノ下堀・砂原・清水やしきなどの地名がある。

荒島村
あらしまむら

[現在地名]荒川町荒島

荒川左岸に位置し、西は春木山はるきやま村、東は花立はなだて村に接する。米沢街道が東西に通る。村内の字南俣みなみまたを元亨三年(一三二三)八月七日の河村秀久譲状案(河村氏文書)にみえる「ミなミまた」に比定する説もある。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「黒川分色部分あらしま村 中 本納合五拾石四斗 縄ノ高合弐百参拾五石□□ 家合拾七間」とある。

近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、寛保二年(一七四二)から文化八年(一八一一)まで陸奥白河藩領。慶長三年(一五九八)の村上頼勝知行宛行状(富岡行雄氏蔵)によれば、「関組荒嶋村」一〇〇石が富岡大郎八に宛行われている。

荒島村
あらしまむら

[現在地名]只見町荒島

熊倉くまぐら村の西に位置し、伊南いな川右岸の狭い平地に集落がある。対岸を沼田街道が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「荒島 拾九石五升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で免三ツ一分。黒谷組に属する。当村の石高をみると、宝暦一二年(一七六二)には九斗四升五合に激減し(図説会津只見の歴史)、文化一五年(一八一八)には二五石余になっている(南山御蔵入領組村高帳)。化政期の家数一〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報