菅原村(読み)すがわらむら

日本歴史地名大系 「菅原村」の解説

菅原村
すがわらむら

[現在地名]九重町菅原

町田まちだ村の南西に位置し、玖珠川支流の町田川の最上流域。西部を肥後小国おぐに(現熊本県小国町など)と結ぶ道が通る。慶長六年(一六〇一)予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)にすか原村とみえ、高二千五六四石余。慶長豊後国絵図では菅原村とあり、同高。慶長七年の玖珠郡・日田郡御倉入目録(佐伯藩政史料)では物成五三三石余のうち米二〇一石余・大唐一〇石余・豆一六八石余・蕎麦三八石余・粟二五石余・稗八八石余。同一〇年の検地目録帳(同史料)には田数一一五町五反余・畑数一〇〇町三反余で、物成四六一石余。元和二年(一六一六)検地帳(佐伯市立図書館蔵)は村内の内水うちみず長廻ながまわり大田おおた入したもので、内水は高二七石で田一町八反余・畑一町一反余のすべてが理右衛門の名請高、長廻は高六石余で田四反六畝余・畑三反余のすべてが勘右衛門の名請高、大田は高一〇石余で田一町余など、名請人は勘右衛門・内匠分源五郎などとなっている。

菅原村
すがはらむら

[現在地名]奈良市菅原町・あやめ池南あやめいけみなみ一―九丁目・学園南がくえんみなみ一―三丁目付近

青野あおの村南に所在。「日本書紀」推古天皇一五年条に「倭国に、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池作る」、「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月一四日条に「行幸菅原」、同一一月七日条に「遷菅原地民九十余家給布穀」、天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起並流記資財帳に「添下郡菅原郷」とみえる菅原・菅原郷の地。また「万葉集」巻二〇に

<資料は省略されています>

とみえ、当地に藤原宿奈麿の家があったものと考えられる。

菅原村
すがわらむら

[現在地名]志雄町菅原

子浦しお町の北、内浦街道に沿う村。京都北野天満宮領菅原庄の中心地で、庄鎮守の菅原神社が鎮座。開発百姓国武家は代々行長を称し、大永六年(一五二六)一〇月書写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)に「とふ左衛門行長」が貢納権をもつ田地七筆がみえる。天正一〇年(一五八二)八月五日の菅原村行長宛の前田利家宛行状(国田文書)に「其在所肝煎為褒美、居住近所一五俵令扶持畢」とあり、同一三年六月には行長と中川なかがわ(現羽咋市)太郎右衛門・杉野屋すぎのや村百姓中に対し荒蕪地の開作を督励する利家の書状(同文書)が出されている。

菅原村
すがはらむら

[現在地名]妙義町菅原

大桁おおげた(八三五・九メートル)の北麓に位置し、西部に金鶏きんけい(八五六・一メートル)がそびえ、村央を高田たかた川が北流、東は古立ふるたち村、北は諸戸もろと村と接する。菅原神社蔵の天正五年(一五七七)とされる小幡信龍斎寄進の鰐口銘に「上野州高田庄菅原郷」とある。近世はおおむね小幡藩領。寛文郷帳では田方三二〇石二斗余・畑方五五八石六斗余。

菅原村
すがはらむら

[現在地名]清里村菅原

岡嶺おかみね丘陵地の南麓にあり、北は岡嶺新田、東は深沢ふかさわ村、西は田中たなか村に接する。村名は岡嶺丘陵の天満宮(現菅原神社)に由来する。元和四年(一六一八)の菅原神社社宝の高田藩主松平忠昌諸役免状(清里村教育委員会蔵)には「武士郷菅原村高合四拾石四斗六升」とみえる。正保国絵図に高四石余と記される。天和三年(一六八三)の検地帳(梅津家文書)では高五五石四斗余。鎮守菅原神社は「延喜式」神名帳の頸城郡一三座のうちの「菅原スカハラノ神社」に比定される。近世には菅原天神あるいは天満宮とよばれ、慶長九年(一六〇四)堀監物より社領として田二反を寄進され(「堀監物寄進状」清里村教育委員会蔵)、元和八年には田地三石二斗二升を寄進された(「社領寄進状」同蔵)

菅原村
すげがはらむら

[現在地名]倉吉市菅原

岩倉いわくら村の南東方、岩倉川の上流域に位置する。菅ヶ原とも記す。拝領高は一二石余、本免は三ツ。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高一四石余、竈数六、村内に荒神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三五石余、竈数七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報