萱野保(読み)かるがのほ

日本歴史地名大系 「萱野保」の解説

萱野保
かるがのほ

苅野・軽賀野とも記し、村ともよばれた。英田あがた保の内。康永三年(一三四四)一〇月一〇日の梶井門跡尊胤法親王令旨(祇園社記)に「門跡領加賀国英田保萱野」とあり、萱野を京都祇園社(祇園感神院)に祈祷料所として安堵している。翌四年八月一日、同社長吏晴喜が孫の晴賀に与えた譲状(同書)によれば、康永三年以前に梶井門跡から祇園社に寄進されたとみられる。当地英田保の内、北英田保に含まれたとみられるが明証を欠く。貞和三年(一三四七)七月二日、晴賀は同社社務執行顕詮に当保などを譲っている(「晴賀譲状」祇園社記)。しかし、執行職と当地の管領(支配)権をめぐって、観応三年(一三五二)五月同社内で晴喜の子晴春と顕詮との間に相論が起こり、一一月天台座主尊胤法親王のもとで評定が行われようとしたが、晴春が出頭せず裁定内容は不明である(祇園社家記録)。文和四年(一三五五)天台座主の交替により一二月に晴春が執行職に補せられたもののわずか三日で更迭され、顕詮が還補された(天台座主祇園別当并同執行補任次第)。延文元年(一三五六)四月一〇日、当保は尊胤法親王令旨(祇園社記)により顕詮に再び安堵された。以後南北朝内乱に伴う社僧間の抗争を経て、執行職は貞治五年(一三六六)顕詮の手に戻り、子の顕深を同職として後見し(前掲補任次第)、執行職の一元化に成功した。顕深はやがて宝寿院と称し、この一流が執行職を独占して社領も相承したが、当地の支配は必ずしも円滑には行われなかった。

応安五年(一三七二)七月、祇園社の権別当らは上洛した富樫介昌家に「萱野村事」を依頼している。同月二六日、祇園社は当地の百姓年貢納入を督促しているが、一〇月二九日には前執行顕詮が「富樫若党」岡入道と「萱野公田一丁九反」について談合した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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