蔵王堂城(読み)ざおうどうじょう

日本の城がわかる事典 「蔵王堂城」の解説

ざおうどうじょう【蔵王堂城】

新潟県長岡市にあった山城(やまじろ)。JR北長岡駅の西方約1kmの金峯神社・安禅寺の境内に位置していた。南北朝時代、ここに蔵王権現を祀る蔵王堂(現在の金峯神社)があったが、北朝方の中条氏が本陣を構えたことから城塞(蔵王堂城)になったといわれる。その後、古志長尾家の長尾景春居城を構えたが、その4代後の孝景は栖吉城(長岡市)を築城し、居城を移したとされる。1509年(永正7)、関東管領の上杉顕定は、越後守護の上杉房能を襲撃して自刃させ上杉定実を新守護に擁立した守護代の長尾為景(府内長尾氏、謙信の父)を攻めたが、翌1510年(永正8)、為景は反攻して長森原の戦いで顕定を敗死させた。この為景と上杉房能、上杉顕定との一連の戦いで、栖吉城主の長尾房景は当初、為景に味方して房能を攻めたが、顕定が報復に乗り出すと一転して顕定方として、為景方の蔵王堂城を攻めている。しかし、為景の攻勢が本格化すると、為景の求めに応じて為景方に加わった。その後、謙信の叔父にあたる長尾為重が蔵王堂城を本格的な城郭として整備し、以来、上杉景勝が会津に移封されるまで、長尾上杉氏の城となった。上杉氏が会津に移ると、堀秀治春日山城(上越市)に入城したが、蔵王堂城には秀治の弟の堀親良が入り、江戸時代には蔵王堂藩の初代藩主となった。その後、蔵王堂藩は断絶となり坂戸藩に編入されたが、坂戸藩主の堀直寄が飯山藩に移封になると、旧坂戸藩領は福嶋藩(高田藩)の属領となり、蔵王堂城には藩主松平忠輝の家臣山田隼人が入城した。大坂夏の陣の不手際から、忠輝が改易になると直寄が蔵王堂城主として戻り蔵王堂藩が復活した。直寄は1618年(元和4)、蔵王堂城南方に長岡城(長岡市)の築城を開始した。直寄が蔵王堂城から長岡城に居城と藩の政庁を移そうとしたのは、たびたび信濃川の水害の被害を受け、城の維持が困難になったからだといわれている。長岡城の建設中、直寄は越後村上城へ移封となり、新城主の牧野忠成に工事が引き継がれ、長岡城は完成した。同城の完成に伴い蔵王堂城は廃城となって、蔵王堂藩は長岡藩に移行。旧蔵王堂藩の藩領は天領幕府の直轄地)となり、蔵王堂城跡には蔵王代官所が設けられた。現在、城跡一帯は金峯神社、蔵王権現、毘沙門堂、安禅寺の敷地になっている。城はそのまま寺社仏閣になったため、比較的良好な状態遺構が残され、本丸土塁や水堀一部が現存する。JR上越新幹線・信越本線長岡駅から徒歩約40分。◇蔵王城とも通称される。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の蔵王堂城の言及

【長岡[市]】より

…新潟県の中央に広がる越後(新潟)平野の南部にある市。1906年市制。人口19万0470(1995)。市域は信濃川の扇状地面に位置する,県中部の中心都市で,上越新幹線,上越線,信越本線が通り,北陸自動車道,関越自動車道,国道8号,17号線の分岐点に当たる交通の要衝をなす。信濃川東岸にある中心市街地は近世,堀直竒(なおより)のあとを引き継いだ牧野氏の城下町として発展し,鉄道開通前は信濃川を利用する六日町~新潟間の中心的な河岸として繁栄した。…

※「蔵王堂城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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