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飯山藩 いいやまはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

飯山藩
いいやまはん

江戸時代,信濃国 (長野県) 水内 (みのち) 郡飯山地方を領有した藩。譜代大名。皆川氏7万 5000石,堀氏5万石,佐久間氏3万石,松平氏4万石,永井氏3万 3000石,青山氏4万 8000石を経て,享保2 (1717) 年以来本多氏が2万石を領して廃藩置県に及ぶ。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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藩名・旧国名がわかる事典の解説

いいやまはん【飯山藩】

江戸時代信濃(しなの)国水内(みのち)郡飯山(現、長野県飯山市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩(一時外様(とざま)藩)。藩校は長道館。1603年(慶長(けいちょう)8)に松平忠輝(ただてる)が北信4郡を領有したとき、その付属大名皆川広照(みながわひろてる)が4万石で飯山に入り、立藩した。本格的な成立は10年に堀直寄(なおより)が入封(にゅうほう)してからで、直寄は千曲川の治水や新田開発、城下町の整備などを進めた。16年(元和(げんな)2)に直寄が越後(えちご)国長岡藩へ移ると、代わって佐久間氏が3万石で入り、3代続いた。その後は、39年(寛永(かんえい)16)から松平(桜井)氏2代(4万石)、1706年(宝永3)から永井直敬(なおひろ)(3万3000石)、11年(正徳(しょうとく)1)からは青山幸秀(よしひで)(4万8000石)と続いた。次いで17年(享保(きょうほう)2)に本多助芳(すけよし)が2万石で入り、以後は明治維新まで本多氏9代が続いた。頻繁に水害に見舞われる飯山藩の実際の石高は1万石程度にすぎなかった。幕府への懇願の結果、24年に所領替えが許され、千曲川左岸水内郡に3万5000石を領有することになった。1871年(明治4)の廃藩置県により、飯山県を経て長野県に編入された。

出典|講談社
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

飯山藩
いいやまはん

信濃(しなの)国飯山城(長野県飯山市)を居城に奥信濃を領有した小藩。上杉景勝(かげかつ)の会津移封により1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)大名関一政(せきかずまさ)(3万石)が入ったのが初め。森忠政、松平忠輝(ただてる)の支城時代を経て1610年堀直寄(なおより)(4万石)が入封し、千曲(ちくま)川治水、城下町整備などを進め、藩支配の基礎固めをした。これを受けて藩政を確立したのは、1616年(元和2)入封の佐久間氏3代(3万石)を挟んで、1639年(寛永16)に入った松平(桜井)忠倶(ただとも)(4万石)で、孫忠喬(ただたか)とも2代68年間に領内総検地、貢租(こうそ)と百姓身分の整序、野田喜左衛門を起用した用水開削などを行った。以後1706年(宝永3)永井直敬(なおひろ)(3万3000石)、1711年(正徳1)青山幸侶(よしとも)(4万8000石)、1717年(享保2)本多助芳(すけよし)(2万石)が次々と入封、松平氏の藩政を踏襲した。本多氏は康明(やすあきら)、助有(すけもち)、助盈(すけみつ)、助受(すけつぐ)、助賢(すけとし)、助実(すけざね)、助成(すけしげ)、助寵(すけたか)と在封して廃藩に及んだ。1871年(明治4)飯山県から長野県に統合された。[古川貞雄]
『田中修一編『飯山町誌』(1955・飯山市公民館)』

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