日本歴史地名大系 「薦野陣屋町」の解説
薦野陣屋町
こものじんやまち
鈴鹿山脈
織田信長の伊勢侵攻後、北伊勢五郡は滝川一益の領するところとなり、一益は三重郡支配の代官所を薦野に置いたと伝える。北伊勢地方は一益の没落後、天正一二年(一五八四)頃より織田信雄、同一八年信雄追放後は豊臣秀次の所領となったと考えられる(菰野町史)。菰野土方氏は雄氏より始まるが、その父雄久は信雄・秀次に仕えているので、当時すでに薦野を知行していた可能性もある。「藩翰譜」によれば、雄久は慶長四年(一五九九)徳川家康によって流され、佐竹氏に預けられたが、関ヶ原合戦に徳川方に従い伊勢国・加賀国で二万石を与えられたという。藩祖雄氏は雄久の嫡子で、文禄三年(一五九四)豊臣秀吉より伊勢国
菰野藩土方氏は外様、柳間詰。元禄一一年(一六九八)の分限帳写(菰野町資料館蔵)によれば、五〇石以上の家禄を有する者二一、最高は五〇〇石。これを含めて足軽以上一一三。中間・小者・諸職人など給米を得る者一二三。以上は江戸詰の家臣を含めての人数と考えられる。天保一五年(一八四四)の御役席并席順分限帳写(同館蔵)による職制および人数は、御年寄一、江戸御年寄二、御用人五、江戸留守居役一、御側御用人二など近習以上の上士にあたる者五四、徒士四六、足軽六二、中間、小者など一八である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報