薦野陣屋町(読み)こものじんやまち

日本歴史地名大系 「薦野陣屋町」の解説

薦野陣屋町
こものじんやまち

[現在地名]菰野町菰野

鈴鹿山脈御在所ございしよ(一二〇九・八メートル)の東麓、北を三滝みたき川、南に金渓かんだに川が東流する間の平坦地に位置する。金渓川の南は見性寺けんしようじ(一〇〇・九メートル)の低い丘陵。江戸時代土方氏一万二千石の陣屋が置かれた。陣屋は東薦野ひがしこもの村西部にあり、これを中心として東薦野村中薦野村の一部にまたがって侍屋敷・町場が形成された。町の北側を三滝川に沿って湯之山ゆのやま街道が、町の東部を南北に巡見街道が走る。「神鳳鈔」に「薦野御厨」とみえ、長禄二年(一四五八)の伊勢国智積御厨年貢帳(京都市醍醐寺蔵)には「青花院 こものゝ」と出る。また室町後期と考えられる伊勢国智積・川嶋山田境図(同寺蔵)には、智積ちしやく御厨(現四日市市)の北西に「薦野」とある。

織田信長の伊勢侵攻後、北伊勢五郡は滝川一益の領するところとなり、一益は三重郡支配の代官所を薦野に置いたと伝える。北伊勢地方は一益の没落後、天正一二年(一五八四)頃より織田信雄、同一八年信雄追放後は豊臣秀次の所領となったと考えられる(菰野町史)。菰野土方氏は雄氏より始まるが、その父雄久は信雄・秀次に仕えているので、当時すでに薦野を知行していた可能性もある。「藩翰譜」によれば、雄久は慶長四年(一五九九)徳川家康によって流され、佐竹氏に預けられたが、関ヶ原合戦に徳川方に従い伊勢国・加賀国で二万石を与えられたという。藩祖雄氏は雄久の嫡子で、文禄三年(一五九四)豊臣秀吉より伊勢国員弁いなべ石榑いしぐれ(現大安町)で二千七〇九石四升、森忠もりただ(現桑名市)で二九一石を与えられている(「豊臣秀吉朱印状」土方氏旧蔵)。関ヶ原合戦・大坂の役では徳川氏に従い、父雄久の遺領のうち伊勢国三重郡一万石、近江国栗太くりた郡二千石を継いだ。雄久の次男雄重は陸奥国窪田くぼた(現いわき市)で二万石を領した。

菰野藩土方氏は外様、柳間詰。元禄一一年(一六九八)の分限帳写(菰野町資料館蔵)によれば、五〇石以上の家禄を有する者二一、最高は五〇〇石。これを含めて足軽以上一一三。中間・小者・諸職人など給米を得る者一二三。以上は江戸詰の家臣を含めての人数と考えられる。天保一五年(一八四四)の御役席并席順分限帳写(同館蔵)による職制および人数は、御年寄一、江戸御年寄二、御用人五、江戸留守居役一、御側御用人二など近習以上の上士にあたる者五四、徒士四六、足軽六二、中間、小者など一八である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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