藤原園人(読み)ふじわらのそのんど

改訂新版 世界大百科事典 「藤原園人」の意味・わかりやすい解説

藤原園人 (ふじわらのそのんど)
生没年:756-818(天平勝宝8-弘仁9)

平安初期の官人。父は北家藤原楓麻呂で,母は式家藤原良継の娘という。779年(宝亀10)無位より従五位下となり,以降783年(延暦2)から少納言および右少弁としての約6年間のほかは約18年にわたって美濃備中安芸備後豊後,大和などの諸国に赴いた。この間良吏としての称があり百姓が追慕したという。799年右大弁となり,大蔵卿宮内卿などを歴任し,806年(大同1)権参議となりさらに参議となったが,この年観察使が設けられるや山陽道観察使に任ぜられ,現在判明する上表のみでも21回に及んでいる。国司としての長い体験にもとづいて,官人の上京の制限や正税貸付けなど民政に直接に関連する奏言が多い。嵯峨天皇の皇太子時代の春宮大夫でもあり,即位翌年大納言民部卿(810),812年(弘仁3)右大臣東宮傅となり,在官7年,63歳で没し,正一位左大臣が贈られた。また万多親王らとともに《新撰姓氏録》を撰進
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朝日日本歴史人物事典 「藤原園人」の解説

藤原園人

没年:弘仁9.12.19(819.1.18)
生年:天平勝宝8(756)
平安前期の公卿。参議楓麻呂と内大臣良継の娘の長男。良房の孫。宝亀10(779)年に美濃介となって以来,20年にわたり備中守,安芸守,豊後守,大和守などの地方官を歴任。良心的な施政により,「皆良吏の称あり。百姓追慕,或いは祠を立つ」(『公卿補任』)といわれた良吏。のち大同1(806)年5月,山陽道観察使となり往還の接待に苦しむ百姓のために国司入京の制限を提案したのもそうした体験による。嵯峨朝では大納言,次いで右大臣に昇進して行政的手腕を発揮,出挙利率の引き下げや郡司制度の見直しを図るなど園人ならではの改革案が『政事要略』などに数多く収められている。『新撰姓氏録』の編者のひとり。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原園人」の解説

藤原園人 ふじわらの-そのひと

756-819* 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年生まれ。北家藤原楓麻呂(かえでまろ)の長男。母は藤原良継の娘。地方官を歴任し延暦(えんりゃく)25年(806)参議。弘仁(こうにん)3年右大臣,5年従二位にいたる。山陽道観察使,東宮傅(ふ)などを歴任,嵯峨(さが)朝で地方行政の改革につとめた。「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の編者のひとり。弘仁9年12月19日死去。63歳。贈正一位左大臣。山科大臣とよばれた。

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