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藤原良継 ふじわらのよしつぐ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原良継
ふじわらのよしつぐ

[生]霊亀2(716)
[没]宝亀8(777).9.18.
奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合の次男。母は石上麻呂の娘。初名は宿奈麻呂。天平 12 (740) 年兄広嗣の乱 (→藤原広嗣の乱 ) に連座して伊豆に配流されたが,同 14年罪を許されて帰洛,同 18年従五位下となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原良継 ふじわらの-よしつぐ

716-777 奈良時代の公卿(くぎょう)。
霊亀(れいき)2年生まれ。式家藤原宇合(うまかい)の次男。天平(てんぴょう)12年(740)兄広嗣(ひろつぐ)の乱により配流,14年ゆるされる。天平宝字7年(763)藤原仲麻呂の排除をはかり,捕らえられて姓(かばね)と位階をうばわれた。翌年仲麻呂の乱で追討に功があり,神護景雲(じんごけいうん)4年参議。内大臣,従二位にいたる。宝亀(ほうき)8年9月18日死去。62歳。贈正一位太政大臣。初名は宿奈麻呂。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原良継

没年:宝亀8.9.18(777.10.23)
生年:霊亀2(716)
奈良時代の貴族。藤原宇合と蘇我倉山田石川麻呂の娘国咸大刀自の子。はじめ宿奈麻呂といい,宝亀1(770)年ごろ良継に改名。天平12(740)年,兄広嗣の乱に連座して伊豆国(静岡県)に配流されたが,同14年に赦免。同18年に従五位下。越前守,上総守などの地方官や,民部少輔,造宮大輔などを歴任したが,治績なしと評された。藤原仲麻呂政権下,仲麻呂の3人の子が参議になり良継の上位に立ったことを不満として,天平宝字7(763)年佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持らと仲麻呂の殺害を図ったが発覚。逮捕糾問され一身に責を負い,姓と位階を剥奪された。藤原仲麻呂の乱(764)では兵を率いて追討し,功により従四位下勲4等。以後大宰府(太宰府市)の長官,兵部卿兼造法華寺長官を務め,従三位に昇った。宝亀1(770)年参議となり,同年の称徳天皇死去後は藤原永手(翌年急死)らと共に光仁天皇を擁立。翌年,新設のポスト内臣(職掌などは大納言と同じ)になり,光仁を補佐し,のち内大臣に進んだ。廟堂首座は右大臣大中臣清麻呂であったが,政治は良継が領導していたらしい。内大臣従二位で死去,従一位を追贈された。阿(安)部古美奈との間に娘乙牟漏(桓武天皇の皇后で平城・嵯峨両天皇の母),他に妻として石川郎女(大津皇子との贈答歌で知られる女性とは別人),娘として諸姉(藤原百川の妻),息子として託美の存在が知られている。<参考文献>中川収『奈良時代政治史の研究』

(増渕徹)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのよしつぐ【藤原良継】

716‐777(霊亀2‐宝亀8)
奈良時代の官人。藤原宇合(うまかい)の二子で,母は石川麻呂の娘。はじめ宿奈麻呂(すくなまろ)といったがのち良継と改名。740年(天平12)兄藤原広嗣の反乱に連座して伊豆に流されたが2年後に放免され,少判事をへて746年従五位下となる。以降,権力を集中する藤原仲麻呂に対しては反対の立場を堅持し,大伴家持らと謀って仲麻呂を排除しようとした陰謀は発覚したが,自分の単独犯と主張して官位を奪われた。764年(天平宝字8)恵美押勝の乱に際しては兵を率いて追討し,功により従四位下勲四等が授けられ,大宰帥となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原良継
ふじわらのよしつぐ
(716―777)

奈良後期の上級貴族官僚。藤原式家宇合(うまかい)の二男で、本名は宿奈麻呂(すくなまろ)。740年(天平12)に兄広嗣(ひろつぐ)の反乱に坐(ざ)して伊豆へ流され、やがて赦(ゆる)されて帰京。746年に貴族官僚に列して、上総守(かずさのかみ)、左中弁などを歴任、763年(天平宝字7)4月、権勢家藤原恵美朝臣押勝(えみのあそんおしかつ)を除こうとしたクーデター未遂事件で官位などを剥奪(はくだつ)された。翌年9月、押勝の反乱にあたって追討に活躍し、乱後に重職を歴任して、770年(神護景雲4)7月に参議となり、翌8月、称徳(しょうとく)女帝崩後の立太子会議で活躍した。光仁(こうにん)天皇即位後の771年(宝亀2)3月に内臣(うちつおみ)となって実権を握り、宝亀(ほうき)8年9月18日に内大臣従(じゅ)二位で没。女乙牟漏(おとむろ)は桓武(かんむ)皇后。[野村忠夫]

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世界大百科事典内の藤原良継の言及

【恵美押勝の乱】より

…すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

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