平安中期の政変。969年(安和2)3月,源満仲らの密告により,橘繁延,僧蓮茂らが謀反の疑いで逮捕・尋問されたが,罪は醍醐天皇の子で,儀式に精通し,朝廷に重きをなしていた左大臣源高明に及び,彼は大宰員外帥に左遷,繁延らは流罪,与党の源連は追捕され,また武士の藤原千晴(秀郷の子)らも捕らえられて流された。一方,右大臣藤原師尹が左大臣,大納言藤原在衡が右大臣に昇任した。この事件の真相については諸説あるが,結局は藤原氏の陰謀と考えられる。967年村上天皇が没すると皇后藤原安子(師輔女)の生んだ憲平親王(冷泉天皇)が即位,弟守平親王(円融天皇)が同母兄為平親王を越えて皇太弟となる。これは源高明の女が為平の妃であるのを藤原氏に忌避されたためで,おそらく高明や彼の側近の不満が言動にあらわれ,それが謀反事件に作りあげられたものと想像される。他方藤原氏側にも内部対立はあった。関白太政大臣の実頼は弟師輔と競争関係にあり,師輔死後もその子伊尹,藤原兼家らの外戚の威をかりた行動を憎み,次の弟師尹も兼家と対立していたらしい。しかし結局は源氏である高明排斥では一致したようで,中心人物は師尹と兼家であり,在衡は無関係と思われる。高明は師輔の女婿で親密であったが頼りになる師輔はすでに亡かった。また事件の背景に源満仲,藤原千晴ら武士同士の対立も想定されている。なお安和の変は藤原氏の他氏排斥の最後の事件ともいわれ,摂関体制はこれ以後強固になった。
執筆者:黒板 伸夫
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969年(安和2)藤原氏が起こした他氏排斥の疑獄事件。右大臣藤原師尹(もろただ)が、左大臣源高明(たかあきら)(醍醐(だいご)天皇の皇子。賜姓源氏)を左遷し、その結果、自ら左大臣となる。事件の発端は同年3月、左馬助(さまのすけ)源満仲(みつなか)、前武蔵介(むさしのすけ)藤原善時(よしとき)らが、中務少輔(なかつかさのしょう)橘繁延(たちばなのしげのぶ)、源連(つらね)、前相模介(さがみのすけ)藤原千晴(ちはる)らを密告したことに始まる。朝廷は取調べの結果、源高明に関係深い事件とし高明を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に貶(お)とし、繁延を土佐(高知県)、千晴を隠岐(おき)に配流した。これより先、源高明は藤原師輔(もろすけ)(師尹の兄)の娘を妻としており、妻の姉は村上天皇の中宮(ちゅうぐう)安子である。村上と安子の間には、憲平(のりひら)(冷泉(れいぜい)天皇)、為平(ためひら)、守平(もりひら)の3親王があり、村上天皇と安子は為平親王を憲平親王の即位後皇太子にしようと考えていた。しかるに、村上天皇退位のとき、藤原氏の実頼(さねより)、伊尹(これただ)、兼家(かねいえ)らは、為平親王が皇太子からいずれ即位して源氏の繁栄することを恐れ、為平親王が源高明の娘婿であることを理由にこれを排除、守平親王を皇太子とした。また、師輔の娘が高明の妻であることから、師輔の兄実頼、弟師尹は師輔に対しての反発も強く、師輔、安子の死により高明は支柱を失ったところ、高明が為平親王を擁立し東国に軍兵を起こし即位させようとしているなどのうわさがたち、源満仲は、初めは仲間であったのが心変わりして密告したという。朝廷内の騒動は、承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱のようであったと『日本紀略』に伝え、師尹が主謀者と『歴代編年集成』にある。高明は出家し、邸(やしき)は焼失した。源満仲の武士としての進出、藤原氏の他氏排斥最後の事件であると同時に、藤原氏同士、兄弟の争いの第一歩がこの事件である。
[山中 裕]
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969年(安和2)3月,藤原氏が謀略によって左大臣源高明(たかあきら)を失脚させ,大宰権帥(ごんのそち)に左遷した事件。醍醐天皇の皇子高明の女は村上天皇の皇子為平親王の妃であり,親王は冷泉天皇の東宮の有力候補だったが,藤原氏は967年(康保4)守平親王(円融天皇)の立太子を成功させた。しかし病弱の冷泉天皇譲位後の東宮問題に不安を抱いた藤原氏(師尹(もろただ)・伊尹(これただ)・兼家ら)にとって,筆頭大臣を舅とする為平親王の存在は脅威であり,高明を失脚させることで,為平親王の皇位継承資格を奪おうとしたのであろう。969年3月25日,左馬助源満仲(みつなか)が左兵衛大尉源連(つらぬ)らの謀反を密告したのを機に,右大臣藤原師尹らはただちに内裏警固・固関(こげん)を行い,前相模介藤原千晴(ちはる)らを逮捕。翌日の臨時除目(じもく)で高明は大宰権帥に左遷され,師尹が左大臣になった。千晴は隠岐に流され,諸国に源連らの追討が命じられ,下野国には藤原秀郷(ひでさと)の子孫を教戒せよとの官符が出された。一方,満仲は密告の功で昇進した。
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…この日記の名称はこれに由来する。中巻の3年間は兼家との夫婦仲の最も険悪だった時期であり,その間,左大臣源高明が配流された安和(あんな)の変への異常な関心や唐崎での祓,石山詣などが大きく記されるのだが,やがて作者は兼家の新しい愛人の出現に絶望し鳴滝の般若寺にこもる。このあたりから諦(あきら)めの境地に入ったらしく,鳴滝から連れ戻されたあと再び初瀬詣をしたことを記す中巻末には,沈静した人生観照・自然観照がみられるようになる。…
…また960年(天徳4)の内裏焼亡は,天皇に大きな挫折感を味わわせたばかりでなく,朝廷の矮小化の糸口を開くものとなった。 村上天皇についで即位した冷泉天皇は病弱のため,実頼が関白となって摂関制は再出発したが,師輔の後継者たちは,左大臣源高明を前途の障害になるとみて,969年(安和2)安和(あんな)の変を起こして高明を失脚させた。こうして他氏排斥に終止符をうった藤原氏は,やがて摂関の座をめぐって骨肉の争いを展開した。…
…摂津源氏の祖。藤原摂関家に接近し,摂関政治確立の端緒となった969年(安和2)の安和(あんな)の変をしくんだといわれる。この変で平将門追討に功のあった藤原秀郷(ひでさと)の子千晴が連座し,摂関家と結んだ満仲は武人としての地位を確立するに至った。…
※「安和の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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