藤原有家(読み)ふじわらのありいえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原有家」の意味・わかりやすい解説

藤原有家
ふじわらのありいえ
(1155―1216)

平安・鎌倉時代歌人。父は大宰大弐(だざいのだいに)重家(しげいえ)、母は中納言(ちゅうなごん)藤原家成(いえなり)の女(むすめ)。幼名は仲家。1180年(治承4)有家改名。1202年(建仁2)大蔵卿(きょう)、08年(承元2)従三位(じゅさんみ)、15年(建保3)に出家し、法名は寂印。「文治(ぶんじ)二年(1186)十月経房(つねふさ)家歌合(うたあわせ)」に出詠。建久(けんきゅう)(1190~99)初年ごろから九条家歌壇の一員として活躍し、良経(よしつね)主催の「花月百首」や「六百番歌合」に参加している。六条藤家(ろくじょうとうけ)のなかでは御子左(みこひだり)家系に親しく、「建久六年民部卿(みんぶのきょう)家歌合」や「守覚法親王(しゅかくほっしんのう)家五十首」「千五百番歌合」などに参加。『新古今集』の撰者(せんじゃ)の1人で、後の「建暦(けんりゃく)三年(1213)内裏(だいり)歌合」にも出席。懸詞(かけことば)、縁語の修辞を多用する技巧的な点に特色がある。

[有吉 保]

 ゆく年ををしま海人(あま)の濡(ぬ)れ衣重(かさ)ねて袖(そで)に波やかくらん

『『新古今とその歌人』(『谷山茂著作集5』所収・1983・角川書店)』

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朝日日本歴史人物事典 「藤原有家」の解説

藤原有家

没年:建保4.4.11(1216.4.29)
生年:久寿2(1155)
平安時代末,鎌倉時代初期の歌人。藤原氏北家末茂流。父は大宰大弐重家。母は藤原家成の娘。幼名は仲家。従三位大蔵卿に至り,建保3(1215)年に出家。法名は寂印。建久5(1194)年『六百番歌合』,建仁3(1203)年『千五百番歌合』など多くの歌合,歌会に出詠。六条家の人でありながら,藤原俊成・定家の御子左家に近い立場をとり,「夢かよふ道さへ絶えぬ呉竹伏見の里の雪の下折」などの秀歌を残した。『新古今和歌集』の選者のひとり。『続歌仙落書』は,その歌風を「雪積もれる富士の山」の情景に譬えている。<参考文献>『新古今集とその歌人』(『谷山茂著作集』5巻)

(加藤睦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原有家」の解説

藤原有家 ふじわらの-ありいえ

1155-1216 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
久寿2年生まれ。藤原重家の3男。母は藤原家成の娘。従三位,大蔵卿となる。六条家の有力歌人で,和歌所寄人(よりゅうど),「新古今和歌集」撰者のひとりにえらばれた。「千載和歌集」以下の勅撰集に67首がはいる。また漢詩が「和漢兼作集」にみえる。建保(けんぽ)4年4月11日死去。62歳。初名は仲家。法名は寂印。
【格言など】風わたる浅茅(あさぢ)がすゑの露にだにやどりもはてぬ宵のいなづま(「新古今和歌集」)

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