藤原穏子(読み)ふじわらのおんし

朝日日本歴史人物事典 「藤原穏子」の解説

藤原穏子

没年:天暦8.1.4(954.2.9)
生年仁和1(885)
平安前期の皇后,皇太后。父は関白太政大臣藤原基経,母は人康親王の娘。醍醐天皇の皇后。朱雀村上天皇,崇象親王,康子内親王を生む。基経50歳のときの子。醍醐天皇への入内は,天皇祖母皇太后班子女王の反対で順調ではなかった。兄時平の画策で,やっと昌泰2(899)年に入内。延喜3(903)年,19歳で出産した皇子崇象(保明)が翌年皇太子となったが,延長1(923)年3月死去し,その子慶頼王が皇太孫に立てられた。奇しくも同年7月,39歳で寛明親王を,同4年成明親王を出産。延長3年慶頼王が5歳で没すると寛明親王が皇太子になり,同8年即位した(朱雀天皇)。皇太子や皇太孫の死去が菅原道真の祟りによるとの風評のなか,寛明親王を3歳まで御殿の格子も上げず養育したという。宇多上皇,醍醐天皇没後の天慶9(946)年,朱雀天皇に譲位を迫り,皇太弟成明親王(村上天皇)を即位させ,また憲平親王の立太子にも采配を振るうなど国母として実権掌握,宮廷内の人事や政務に強大な発言力を発揮した。これは天皇と皇后がともに政治を行う前代伝統が発揮されたものと考えられ,女院の先駆的存在とされる。わが国最古の女性日記『太后御記』を著す。男性日記と同体裁のかな文,日並日記で,わずかな逸文しか残っていないが,長い期間にわたり執筆されたと推察される。<参考文献>藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』,「太皇太后藤原穏子」(『角田文衛著作集』6巻)

(服藤早苗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「藤原穏子」の意味・わかりやすい解説

藤原穏子 (ふじわらのおんし)
生没年:885-954(仁和1-天暦8)

平安中期の中宮。藤原基経と人康親王女との間に生まれる(母を藤原得子とする伝もある)。899年(昌泰2)醍醐天皇の後宮に入り,901年(延喜1)女御,さらに中宮,皇太后,太皇太后となる。子に保明親王,朱雀天皇,村上天皇,康子内親王の4人がおり,両天皇の国母として,兄の太政大臣忠平と結んで強大な権威をたもち,摂関全盛の時代をもたらした。その後宮のことを記したという《大后御記》は散逸したが,穏子らの建立した醍醐寺五重塔が現存する。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原穏子」の解説

藤原穏子 ふじわらの-おんし

885-954 平安時代中期,醍醐(だいご)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
仁和(にんな)元年生まれ。藤原基経(もとつね)の娘。母は人康(さねやす)親王の王女。昌泰(しょうたい)4年女御,延喜(えんぎ)23年(923)中宮となる。保明(やすあきら)親王,朱雀(すざく),村上両天皇,康子内親王を生む。のち皇太后,太皇太后。五条后とよばれる。天暦(てんりゃく)8年1月4日死去。70歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原穏子」の意味・わかりやすい解説

藤原穏子
ふじわらのおんし

[生]仁和1(885)
[没]天暦8(954).1.4.
醍醐天皇の皇后。基経の娘。別称,五条后。朱雀,村上両天皇の母。延喜1 (901) 年女御となり,延長1 (923) 年皇后となった。

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