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藤原豊成 ふじわらのとよなり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原豊成
ふじわらのとよなり

[生]慶雲1(704).奈良
[没]天平神護1(765).11.27. 奈良
奈良時代の廷臣。難波大臣,横佩大臣ともいう。藤原南家の祖武智麻呂の子,仲麻呂の兄。天平9 (737) 年疫病で父や叔父が没すると参議,同 15年中納言,次いで大納言天平感宝1 (749) 年右大臣となり,左大臣橘諸兄と並ぶ藤原氏勢力の代表者となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原豊成 ふじわらの-とよなり

704-766* 奈良時代の公卿(くぎょう)。
慶雲(きょううん)元年生まれ。南家藤原武智麻呂(むちまろ)の長男。母は阿倍御主人(あべの-みうし)の孫娘。天平(てんぴょう)9年(737)父と叔父の病死により参議となり,天平感宝元年(749)右大臣にすすむ。弟藤原仲麻呂の勢力におされ,橘(たちばなの)奈良麻呂の変により左遷されたが,仲麻呂の失脚で右大臣に復し従一位となった。難波大臣,横佩(よこはきの)大臣とよばれた。天平神護元年11月27日死去。62歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原豊成

没年:天平神護1.11.27(766.1.12)
生年:慶雲1(704)
奈良時代の公卿。藤原武智麻呂の長子。母は右大臣従二位阿倍御主人の孫娘(ただし安倍貞吉の娘とも安倍真虎の娘とも伝えられる)。仲麻呂は同母弟。妻は藤原房前の娘百能。子に継縄,乙縄,縄麻呂らがいる。難波大臣とも横佩大臣とも号した。若くして才学の誉れ高く,養老7(723)年に内舎人で兵部丞を兼ね,翌神亀1(724)年には従五位下。以後順調に昇進し,天平9(737)年疫病(天然痘)で父や叔父たちが死去するなか,藤原氏からただひとり参議に選ばれた。天平勝宝1(749)年には右大臣に任じて廟堂の首班となり,天平宝字1(757)年正二位に叙されたが,道祖王に代わる新皇太子推戴会議以後弟仲麻呂と対立。同年に勃発した橘奈良麻呂の変に第3子乙縄が関与したとされて大宰府(太宰府市)の員外帥に任じられたが,病と称して難波の別荘に居座って赴任しなかったといわれる。仲麻呂が反乱を起こすと(764),再び右大臣に復帰し,従一位に叙されたが,1年余で死去。

(橋本義則)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのとよなり【藤原豊成】

704‐765(慶雲1‐天平神護1)
奈良中期の官人。武智麻呂の第1子で,仲麻呂と同腹。継縄(つぐただ),乙縄,縄麻呂らの父で,《尊卑分脈》では良因,中将姫と号した女子もその子とある。妻は百能(房前の女)。737年(天平9)12月,天然痘で藤原四卿(房前,麻呂,武智麻呂,宇合)が全滅したあと参議に任じられ,藤原氏からただひとり議政官となった。また房前のあとをうけて中衛大将に就任したらしく,藤原氏の代表者の地位にあったと思われる。743年中納言,748年大納言,749年(天平勝宝1)右大臣と昇進した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原豊成
ふじわらのとよなり
(704―765)

奈良時代の政治家。南家(なんけ)の祖武智麻呂(むちまろ)の長男。弟仲麻呂(なかまろ)とともに才学あり、名は衆に聞こえたといわれ、しきりに要職を経て、749年(天平勝宝1)に右大臣となった。757年(天平宝字1)に道祖(ふなど)王が皇太子を廃されたときには、藤原永手(ながて)とともに皇太子に王の兄塩焼(しおやき)王を推したが実現しなかった。そのころすでに仲麻呂に政治の実権を握られ、同年起こった橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変で豊成の子乙縄(おとただ)が奈良麻呂に加担し、豊成もこの陰謀を知りながら奏上しなかったとして大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)に左遷されたが、難波(なにわ)の別邸に至って病と称してとどまった。764年に起こった仲麻呂の乱後ふたたび右大臣になったが、翌年薨(こう)じた。[福井俊彦]
『中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社) ▽岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』

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