奈良時代の政治家。敏達(びだつ)天皇の玄孫美努(みぬ)王の子。奈良麻呂(ならまろ)はその長男。葛城王と称した。母は県犬養(あがたいぬかいの)橘三千代(たちばなのみちよ)。母と母の後の夫藤原不比等(ふひと)に引き立てられ、不比等の女多比能(むすめたひの)をめとる。736年(天平8)臣籍に降(くだ)り、母の姓橘宿禰(すくね)を賜い諸兄と称した。710年(和銅3)従(じゅ)五位下に叙し、729年班田使に任ぜられた。この年に薩妙観(さつみょうかん)に贈った歌をはじめ和歌八首が『万葉集』に収められている。731年参議に任じ、翌年従三位(さんみ)に昇叙。737年左大臣藤原武智麻呂(むちまろ)をはじめその三弟、中納言多治比県守(ちゅうなごんたじひのあがたもり)らの高官多数が疱瘡(ほうそう)のため死ぬと、諸兄は同年大納言、翌年右大臣に任ぜられ、以来一(いち)の上(かみ)として756年(天平勝宝8)致仕するまで18年間政権の首座にあった。藤原氏はしばらく政権から離れ振るわなかった。
740年秋、大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で大軍を率いて叛(はん)した。その名目は僧玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を除くということにあるが、両名が諸兄政権のブレーンである点よりみて、実は諸兄排斥、藤原政権回復を意図したものと推定される。乱中、天皇は10月末東国伊勢(いせ)に行幸、そのまま平城に還(かえ)らず、12月に山城(やましろ)国(京都府)相楽(そうらく)郡恭仁(くに)宮に入り、これを皇都とした。この地は諸兄の本貫に近く、遷都は諸兄の計画によるとされている。741年国分寺、同尼寺建立が発願され詔が降った。また近江(おうみ)紫香楽(しがらき)宮の造営とそれへの頻繁な行幸がみられ、743年、天皇はこの地で大仏建立発願の詔を降した。しかるに、翌年閏(うるう)正月難波(なにわ)宮行幸があり、2月に諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出たのは諸兄の政策によるのかもしれない。天皇は紫香楽に行き、大仏造立を推進したが、反対多くて果たさず、ついに平城に還都した。
大仏は平城の東大寺で完成した。この間に諸兄の実権はしだいに衰え、藤原仲麻呂が実力を伸長し、諸兄、奈良麻呂父子との対立は深まった。孝謙(こうけん)天皇時代に光明皇太后と仲麻呂が政権を掌握、諸兄は失意にあり、755年彼の祗承(しぞう)人(左右にいて仕える人)佐味宮守(さみのみやもり)に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴され、太上天皇に許されたが致仕した。天平宝字(てんぴょうほうじ)元年正月6日没。
[横田健一]
奈良時代前~中期の貴族,政治家。敏達天皇の孫または曾孫という栗隈王の孫,美努王の子。母は橘三千代。光明皇后の同母兄で奈良麻呂の父。葛城王と称したが,736年(天平8)11月臣籍に下りて母の氏姓をつぐことを請い,許されて橘宿禰諸兄と称するようになった。のち750年(天平勝宝2)1月朝臣姓を賜った。これよりさき731年8月藤原宇合,麻呂らとともに諸司の挙によって参議となった。737年天然痘の流行により廟堂が壊滅状態になったあと,同年9月生き残った参議鈴鹿王は知太政官事(ちだいじようかんじ)に,諸兄は大納言になった。翌738年1月阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に昇って政権を掌握し,唐から帰国した玄昉や吉備真備がブレーンとして活躍した。740年の藤原広嗣の乱のとき聖武天皇は東国に行幸し,諸兄のすすめによって都を恭仁京(くにきよう)にうつした。743年5月左大臣に昇進するが,このころから藤原氏,とくに仲麻呂との確執が強くなる。755年11月祗承人(近侍者)の佐味宮守に,大臣は飲酒の席で言辞に礼がなく,やや謀反の状があると密告された。聖武太上天皇はこれをとがめなかったが,諸兄は翌年2月に辞任せざるをえなかった。757年1月失意のうちに没した。《公卿補任》には737年に54歳とあるから,これによると没年齢は74歳となる。彼の邸宅ではしばしば歌宴が催され,大伴家持・書持の兄弟,大伴池主その他が参加したらしく,その折の作品が《万葉集》にしばしばみえる。《尊卑分脈》《公卿補任》などに〈井手左大臣〉〈西院大臣〉などと号したとある。
執筆者:栄原 永遠男
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684~757.1.6
奈良中期の公卿。三野王の長男。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。初名葛城王。736年(天平8)に橘宿禰の賜姓を請い,許されて諸兄と改名。710年(和銅3)従五位下に叙され,馬寮監・左大弁などを歴任し,731年(天平3)参議。737年藤原四子の没後,大納言・右大臣に昇って太政官の首班となり,吉備真備(きびのまきび)・玄昉(げんぼう)を政治顧問に迎える。藤原広嗣の乱で政情不安におちいると,恭仁遷宮・大仏建立などで切りぬけようと図る。743年に従一位左大臣に至るが,藤原仲麻呂の台頭により政治的地位は低下。755年(天平勝宝7)聖武太上天皇が病床に伏したとき酒席で不穏な言動があったとして密告にあい,辞任して失意のうちに没する。
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…彼女は夫藤原不比等を助けるかたわら,同族の繁栄をはかり,県犬養広刀自を聖武天皇の夫人とした。その子橘諸兄の時代には石次(いわすき)がこの氏ではただひとりの参議に就任したが,諸兄が権力を失うと,県犬養氏もやがて衰退していった。【黛 弘道】。…
…古代に勢力をもった氏。県犬養三千代が708年(和銅1)11月,歴代の天皇に仕えた功により橘宿禰の氏姓を賜った(橘三千代)。ついで736年(天平8)11月,美努王との間の子の葛城王と佐為王は臣籍に下って母の氏姓をつぎたい旨を上表して認められ,橘宿禰諸兄および同佐為(さい)と名のるようになった。これが橘氏のおこりである。750年(天平勝宝2)1月,諸兄は朝臣の姓(かばね)を賜っている。彼は737年の藤原4卿の急死によって政権を掌握し左大臣にまで昇ったが,藤原仲麻呂と対立し,密告によって756年2月に辞任し,翌年1月没した。…
…その天平初年は〈咲く花の薫ふがごとし〉と歌われたのとは反対に,天候不順のための凶作・飢饉,また大地震が相次ぎ,加えて大宰府管内から流行しはじめた豌豆瘡(もがさ)(天然痘)は,737年になると平城京内に蔓延し,前代未聞といわれるほどの多数の死者が出たが,藤原氏の四卿もついにその犠牲となり,藤原氏は大きな打撃を受けた。 代わって樹立された新しい政権は知太政官事鈴鹿王(長屋王の弟),大納言橘諸兄(はじめ葛城王,母は橘三千代),中納言多治比広成らによって構成され,これに唐から帰国したばかりの玄昉(げんぼう)と下道真備(しもつみちのまきび)(のち吉備真備)が参画したが,その性格は反藤原氏的で,兵士・健児(こんでい)の停止,郡司の減員,国の併合などの行政整理を目的とするいくつかの新施策を実施した。これに対して,親族を讒乱したとして大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)(宇合の長子)が大宰府に拠って反乱を起こし,玄昉,真備の排除を要求した(藤原広嗣の乱)。…
※「橘諸兄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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