橘奈良麻呂(読み)タチバナノナラマロ

精選版 日本国語大辞典 「橘奈良麻呂」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐の‐ならまろ【橘奈良麻呂】

  1. 奈良中期の廷臣。諸兄長男。母は藤原不比等の娘。参議となり藤原仲麻呂と対立。天平宝字元年(七五七)、藤原氏に対する不平分子を糾合して仲麻呂らを討とうとしたが事前にもれ獄死。「万葉集」に三首所載。養老五~天平宝字元年(七二一‐七五七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「橘奈良麻呂」の意味・わかりやすい解説

橘奈良麻呂
たちばなのならまろ
(?―757)

奈良時代の政治家橘諸兄(もろえ)の長男。母は藤原不比等(ふひと)の女(むすめ)、多比能(たひの)。子に嶋田麻呂、清友、安麻呂、入居がある。740年(天平12)5月、聖武(しょうむ)天皇が山城(やましろ)国(京都府)相楽(そうらく)郡にある諸兄の別業(べつごう)に行幸の際、従(じゅ)五位下を授けられ、翌年大学頭に任ぜられた。745年9月、天皇の難波(なにわ)行幸中に摂津大夫(だいふ)に任ぜられる。その直後、天皇は病気となり、重態に陥った。奈良麻呂は佐伯全成(さえきのまたなり)と図り、万一天皇崩御の際は、大伴(おおとも)・佐伯両氏の助けを借り、黄文(きぶみ)王を即位させようといって全成の賛意を得て、その後もそういうことが2回あった。746年民部大輔(たいふ)、749年(天平勝宝1)侍従に、751年参議に任ぜられた。755年11月、聖武太上天皇不予のとき、左大臣諸兄が飲酒の席でことばに礼がなく謀反のさまがみえると、諸兄の祗承(しぞう)人(左右にいて仕える人)佐味宮守(さみのみやもり)が告訴した。太上天皇は諸兄を許して咎(とが)めなかった。757年(天平勝宝9)6月、奈良麻呂が右大弁に任ぜられてまもなく、同28日山背(やましろ)王が訴えて、奈良麻呂が兵器を備えて、藤原仲麻呂の田村宮を囲もうと謀っていると告げた。7月2日上道斐太都(かみつみちのひたつ)がさらに詳細に謀反の状を仲麻呂に告げたので、奈良麻呂をはじめ一味塩焼王、安宿(あすかべ)王、黄文王らは3日に捕らえられたが、光明皇太后にいったん許された。しかし、4日に小野東人(あずまんど)、安宿王、奈良麻呂らが糾問され、謀反を自白させられ、一味とともに杖(じょう)下に死んだと考えられる。843年(承和10)従三位(じゅさんみ)を、年月不明だが太政(だいじょう)大臣を追贈された。『万葉集』に歌三首がある。

[横田健一]

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改訂新版 世界大百科事典 「橘奈良麻呂」の意味・わかりやすい解説

橘奈良麻呂 (たちばなのならまろ)
生没年:721-757(養老5-天平宝字1)

奈良時代中期の貴族,政治家。橘奈良麻呂の変の中心人物。橘諸兄の子,母は《公卿補任》によると藤原多比能(不比等の女)という。《類聚国史》弘仁12年(821)7月乙巳条によると妻は大原明娘で,彼女との間に安麻呂(第1子)がいた。そのほか《尊卑分脈》によると嶋田麻呂,清友,入居(いるいえ)の父。740年(天平12)5月,聖武天皇が父諸兄の別業に行幸したとき,無位から従五位下を授けられ,749年(天平勝宝1)7月参議に昇進した。すでに745年ごろから藤原氏打倒の計画を進めていたが,757年密告によって一味もろとも捕らえられ,おそらく殺されたであろう。《万葉集》に作品が収録されている。また《日本霊異記》では諾楽麻呂とみえ悪事を好んだ人物として伝えられる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橘奈良麻呂」の意味・わかりやすい解説

橘奈良麻呂
たちばなのならまろ

[生]養老5(721)
[没]天平宝字1(757)
奈良時代中期の官人。父は諸兄,母は藤原不比等の娘多比能。室は大原真人明娘。子に島田麻呂,清友,安麻呂,入居らがいる。天平8 (736) 年父,叔父佐為王らとともに橘宿禰 (すくね) の姓を賜わる。同 12年従五位下,天平勝宝6 (754) 年正四位下,次いで兵部卿,天平宝字1 (757) 年右大弁となった。同年6月から7月にかけて,大伴氏,佐伯氏などと結び,権臣藤原仲麻呂を除き,皇太子大炊王を廃し,黄文王を立てようとの企てが,山背王,上道臣斐太都 (ひだつ) らにより相次いで密告され,ついに誅せられたとも,流されたともいう。のち承和 14 (847) 年 10月,太政大臣正一位を追贈された。この贈位は仁明天皇の生母橘嘉智子の縁によるものである。

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百科事典マイペディア 「橘奈良麻呂」の意味・わかりやすい解説

橘奈良麻呂【たちばなのならまろ】

奈良時代の政治家。諸兄(もろえ)の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘。父の権勢により出世,藤原仲麻呂の台頭を排除するため757年道祖(ふなど)王・大伴古麻呂(おおとものこまろ)と結んだが,打倒計画は事前に発覚し失敗。獄死したという(橘奈良麻呂の変)。→橘諸兄
→関連項目石粟荘橘氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘奈良麻呂」の解説

橘奈良麻呂 たちばなの-ならまろ

721-757 奈良時代の公卿(くぎょう)。
養老5年生まれ。橘諸兄(もろえ)の長男。母は藤原多比能(たひの)。参議,兵部(ひょうぶ)卿を歴任。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年,黄文(きぶみ)王や大伴・佐伯・多治比氏らとともに藤原仲麻呂を暗殺し新帝をたてようと計画したが,発覚してとらえられ,獄中で没した。37歳。
【格言など】東大寺を造りて,人民苦辛す(とらえられ,きびしい尋問に対して)

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世界大百科事典(旧版)内の橘奈良麻呂の言及

【橘氏】より

…古代に勢力をもった氏。県犬養三千代が708年(和銅1)11月,歴代の天皇に仕えた功により橘宿禰の氏姓を賜った(橘三千代)。ついで736年(天平8)11月,美努王との間の子の葛城王と佐為王は臣籍に下って母の氏姓をつぎたい旨を上表して認められ,橘宿禰諸兄および同佐為(さい)と名のるようになった。これが橘氏のおこりである。750年(天平勝宝2)1月,諸兄は朝臣の姓(かばね)を賜っている。彼は737年の藤原4卿の急死によって政権を掌握し左大臣にまで昇ったが,藤原仲麻呂と対立し,密告によって756年2月に辞任し,翌年1月没した。…

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