蝶花楼馬楽(読み)ちょうかろうばらく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「蝶花楼馬楽」の意味・わかりやすい解説

蝶花楼馬楽
ちょうかろうばらく

落語家

初代生没年不明。幼名幸吉。金原亭馬六(きんげんていうまろく)から馬楽になったといわれ、まくらがうまかったという。

2代(?―1889)本名加藤幸之助。5代桂(かつら)文治実弟。歌生、柳女から馬楽。

3代(1864―1914)本名本間弥太郎。俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」という。3代目春風亭柳枝(りゅうし)門下となり千枝(せんし)。3代目柳家小さん門下に移ってから馬楽襲名。奇行と風雅と巧みな高座で評判をとる。歌人吉井勇との交友は有名。晩年は精神病のため不遇であった。『長屋の花見』は天下一品で他の追随を許さなかったという。「長屋じゅう歯を喰(く)いしばる花見かな」の名句を残した。馬楽の4代目は4代柳家小さん、5代目は8代林家正蔵(しょうぞう)(彦六)の前名。

6代(1908―1987)本名河原三郎。4代柳家小さんに入門し、柳家花の丞(じょう)、金原(かなはら)の馬の助、華形家八百八(はながたややおはち)を経て1952年(昭和27)馬楽襲名。『子は鎹(かすがい)』『猿後家』『二番煎(せん)じ』などを得意とする。落語協会の長老として後進の指導にもあたる。

7代(1948―2019)本名奥島吉隆。6代馬楽に入門し、蝶花楼楽がん、3代花蝶を経て1991年(平成3)馬楽襲名。

[関山和夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「蝶花楼馬楽」の解説

蝶花楼 馬楽(2代目)
チョウカロウ バラク


職業
落語家

本名
加藤 幸之助

別名
前名=都々逸坊 歌生,麗々亭 柳女

生年月日
天保5年 5月

経歴
はじめ初代都々逸坊扇歌の門人となり歌生を名乗る。のち3代目麗々亭柳橋門に転じ柳女と改名。さらに明治3、4年頃2代目蝶花楼馬楽を襲名した。ややヘソ曲がりだったが芸は達者で、マクラだけ一時間喋っても平気だったと云われる。

没年月日
明治22年 6月22日 (1889年)

家族
兄=桂 文治(5代目)

伝記
寄席行灯―狂馬楽の生涯 祖田浩一 著(発行元 筑摩書房 ’80発行)


蝶花楼 馬楽(6代目)
チョウカロウ バラク


職業
落語家

本名
河原 三郎

別名
前名=柳家 花之丞,金原亭 馬の助,華形家 八百八

生年月日
明治41年 1月21日

出生地
東京市 芝区(東京都 港区)

経歴
洋服屋に奉公した後、昭和6年4代目柳家小さんに入門、花之丞。15年金原野馬の助を経て、22年華形家八百八で真打ちに昇進。27年6代目蝶花楼馬楽を襲名した。華はないが、堅実な芸風であった。

没年月日
昭和62年 6月3日 (1987年)


蝶花楼 馬楽(3代目)
チョウカロウ バラク


職業
落語家

本名
本間 弥太郎

生年月日
元治1年 4月15日

出生地
江戸・芝口(東京都)

経歴
女道楽とバクチ三昧のすえ落語家となり、明治32年、3代目馬楽に。「長屋の花見」など警句まじりの高座は東京落語に大きな影響を与えた。晩年は脳を患い、「気違いに馬楽」とも呼ばれたが、吉井勇や久保田万太郎らの文人と交り、また生活感あふれた俳句でも知られる。

没年月日
大正3年 1月16日 (1914年)


蝶花楼 馬楽(初代)
チョウカロウ バラク


職業
落語家

別名
前名=金原亭 馬六

経歴
生家は江戸・麹町の豆腐屋で、名を幸吉といった。初代金原亭馬生に入門、馬六。天保年間の末から弘化年間の初めにかけ、初代蝶花楼馬楽と改名。芸名は瓢箪から馬を出す唐の張果老仙人にちなむ。師が没すると初代古今亭志ん生の一門に加わり、さらに3代目麗々亭柳橋の一門に転じた。

没年月日
(生没年不詳)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「蝶花楼馬楽」の解説

蝶花楼 馬楽(5代目)
チョウカロウ バラク

昭和期の落語家



生年
明治41(1908)年1月21日

没年
昭和62(1987)年6月3日

出生地
東京・芝南佐久間町

本名
河原 三郎

別名
前名=華形屋 八百八

学歴〔年〕
南桜小中退

経歴
昭和6年4代目柳家小さんに入門。8年金原の馬の助で2ツ目となり、22年初代華形屋八百八を名乗って真打ち。27年5代目馬楽を襲名。57年からは落語協会副会長を務めた。得意ネタは「転宅」「二番煎じ」「もぐら泥」など。


蝶花楼 馬楽(3代目)
チョウカロウ バラク

明治・大正期の落語家



生年
元治1年4月15日(1864年)

没年
大正3(1914)年1月16日

出生地
江戸芝口(現・東京都港区)

本名
本間 弥太郎

経歴
女道楽とバクチ三昧のすえ落語家となり、明治32年、3代目馬楽に。「長屋の花見」など警句まじりの高座は東京落語に大きな影響を与えた。吉井勇や久保田万太郎らの文人と交り、また生活感あふれた俳句でも知られる。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蝶花楼馬楽」の解説

蝶花楼馬楽(3代) ちょうかろう-ばらく

1864-1914 明治-大正時代の落語家。
元治(げんじ)元年8月2日生まれ。明治21年3代春風亭柳枝に入門,千枝を名のる。のち3代柳家小さんの弟子となり,31年3代馬楽を襲名した。38年真打(しんうち)。吉井勇の戯曲で俳諧亭(はいかいてい)句楽として知られる。大正3年1月17日死去。51歳。江戸出身。本名は本間弥太郎。通称は弥太っ平馬楽。

蝶花楼馬楽(6代) ちょうかろう-ばらく

1908-1987 昭和時代の落語家。
明治41年1月21日生まれ。昭和6年4代柳家小さんに入門して花之丞を名のり,金原野(かねはらの)馬の助をへて22年華形家八百八で真打。27年8代林家正蔵門下となり,6代馬楽を襲名。しぶい演出で「応挙の幽霊」「女天下」などを得意とした。昭和62年6月3日死去。79歳。東京出身。本名は河原三郎。

蝶花楼馬楽(2代) ちょうかろう-ばらく

1834-1889 明治時代の落語家。
天保(てんぽう)5年5月生まれ。5代桂文治の弟。都々一坊(どどいつぼう)扇歌の門人で歌生(かしょう)を名のる。のち3代麗々亭柳橋の門に転じ,柳女(りゅうじょ)をへて2代馬楽を襲名した。明治22年6月22日死去。56歳。本名は加藤幸之助。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「蝶花楼馬楽」の解説

蝶花楼 馬楽(2代目) (ちょうかろう ばらく)

生年月日:1864年8月2日
明治時代;大正時代の落語家
1914年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の蝶花楼馬楽の言及

【落語】より

…とくに円喬と小さんは名人とうたわれたが,円喬は円朝の集大成した江戸落語に磨きをかけた意味で前時代につながる人であり,滑稽噺に人情噺の人物描写の技術を導入して噺を芸術化した小さんは現代に直結する人だった。
[大正から昭和初期の落語界]
 大正になると,活動写真やオペラの流行から落語は不況に向かったが,小さん,円右,円蔵の重鎮以外では,2代蝶花楼馬楽(ちようかろうばらく)(1864‐1914),初代柳家小せん(1883‐1919),4代古今亭志ん生(当時は金原亭馬生)の3人が江戸っ子風の反俗的芸風によって,多くのファンや文学者に愛された。また,英語まじりのナンセンス噺によって,特異な人気を集めた初代柳家三語楼(1875‐1940)もいた。…

※「蝶花楼馬楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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