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歌人、劇作家、小説家。明治19年10月8日、東京市芝区高輪(たかなわ)町に生まれる。早稲田(わせだ)大学中退。祖父友実(ともみ)は薩摩(さつま)(鹿児島県)の人で、西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(としみち)らと国事に奔走し、明治になって伯爵を受爵する。勇は15歳で作歌を開始し、20歳で新詩社に入社。雑誌『明星』に投稿するが、22歳のおり、北原白秋、木下杢太郎(もくたろう)、長田幹彦らとともに新詩社を退社。翌1908年(明治41)石井柏亭(はくてい)、森田恒友(つねとも)らと「パンの会」を結成、耽美(たんび)派の拠点となった。またその翌年、森鴎外(おうがい)監修のもとに石川啄木(たくぼく)、平野万里(ばんり)とともに『スバル』を創刊。勇の文学的出発である。第一歌集『酒(さか)ほがひ』(1910)によって文壇的地歩を固める。以後小説、戯曲などを精力的に発表。歌風は、酒と情癡(じょうち)の世界を歌い、耽美頽唐(たいとう)の傾向が強い。そうした文学の隆盛に対して、16年(大正5)「遊蕩(ゆうとう)文学撲滅(ぼくめつ)論」(赤木桁平(こうへい))が発表され、多大の痛手を被った。さらに、33年(昭和8)妻徳子の不行状が指弾されるに至り、社会的地位が問われ爵位を失い、失意のうちに歌行脚(あんぎゃ)を重ね、土佐の猪野野(いのの)に隠棲(いんせい)した。その苦境の所産として歌集『人間経』(1934)、随筆集『わびずみの記』(1936)があり、文学的転機を迎える。その後の歌風は、耽美頽唐は影を潜め、枯淡で人間的な滋味あふれる境地を展開する。
ほかに、歌集『恋人』(1913)、『仇情(あだなさけ)』(1916)、『祇園双紙(ぎおんそうし)』(1917)、『悪の華(はな)』(1927)、『玄冬』(1944)、『流離抄』(1946)などがあり、小説に『墨水十二夜』(1925~26)、『市井夜講』(1947)などがある。戯曲に『狂芸人』(1914)、『髑髏尼(どくろに)』(1913)、『小しんと焉馬(えんば)』(1920)、『俳諧(はいかい)亭句楽の死』(1914)などがある。48年(昭和23)芸術院会員。昭和35年11月19日没。
[水城春房]
過ぎし日の華奢(くわさ)も夢かとおもふとき艶隠者(やさいんじゃ)めく寂しさの湧(わ)く
『『吉井勇全集』全9巻(1977~79・番町書房)』▽『木俣修著『吉井勇研究』(1978・番町書房)』
明治〜昭和期の歌人,劇作家,小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
歌人,作家。東京生れ。伯爵吉井幸蔵の次男。早大政経科中退。中学卒業後の1905年新詩社に入り,《明星》に短歌を発表,注目された。1909年《スバル》創刊後は同人として活躍,戯曲にも手を染めた。第1歌集《酒(さか)ほがひ》(1910)は,青春の情熱を奔放に歌いあげて高い世評を得,戯曲集《午後三時》(1911)とあいまって耽美派の作風を展開した。以降紅灯の巷の情趣を享楽的に歌った《祇園歌集》(1915),市井の寄席芸人の哀歓を写した戯曲集《俳諧亭句楽》(1916)など,吉井勇調というべき独自の作品集を刊行し続けた。26年家督相続。歌集《人間経》(1934)は現実の苦悶から生まれ,歌風の転機となった。爵位返上,妻との離別,土佐隠棲などの変動期を経て,38年に2人目の妻とともに京都に移り,新生活が開けた。戦後,歌会始選者や芸術院会員となり,60年に肺癌で没するまで文筆を廃さず,各地の旅行も楽しんでいる。晩年の代表作に小説集《蝦蟆鉄拐(がまてつかい)》(1952),歌集《形影抄》(1956)などがある。〈夏はきぬ相模(さがみ)の海の南風(なんぷう)にわが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ〉(《酒ほがひ》)。
執筆者:新間 進一
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