西尾城下(読み)にしおじようか

日本歴史地名大系 「西尾城下」の解説

西尾城下
にしおじようか

矢作川下流の左岸、西南方に突出する碧海へきかい台地末端に築かれた西尾城を中心とする城下町。現西尾市のほぼ中心街地にあたる。

西尾城の前身は西条さいじよう城である。承久の乱の功により、三河守護職に任ぜられた足利義氏が、吉良きら庄に来て、台地の南の端に築いたのが西条城で吉良氏を称した。桶狭間の戦ののち吉良氏は滅亡、西条城は西尾城と名を改め、西三河南部の押えとして残された。天正一三年(一五八五)西尾城の修増築が行われ(武徳編年集成)、藩政期には本多康俊から松平(大給)本多・太田・井伊・増山・土井・三浦義理まで転封を繰返し、明和元年(一七六四)松平乗佑に至って藩主家は定着した。藩領は前本多時代は幡豆はず郡内、後本多時代は幡豆加茂かも・碧海三郡内、土井時代は幡豆郡内の七二ヵ村で、松平時代は寛政年間(一七八九―一八〇一)三河国内の城付領と、越前国内の飛地とで構成されていたが、万延元年(一八六〇)三河・越前三郡内の一万六石を、駿河・遠江・三河一一郡内の一万一千七六五石とに領地替されている。

元和七年(一六二一)の石高一千五九三石余、朱印地三三石余(三河国郷帳)、その後伊藤いとう村・新渡場しんどば村を合併。西尾は、小集落から徐々に成長発展し、歴代の城主、とくに田中氏らの積極的な町づくり政策により城下町として構成された。「往古は御城内ばかりにて、御武家様御屋敷等も只今の西之町辺に御座候て、事有る時御城内へ御詰め成られ候由、上町下町等の名目、只今西之町に相残り居り申し候」(「横町肴町出入」平井周平氏蔵)とあるのは、足利氏の築城当時か、それをあまり下らない時代の西尾の姿と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android