西御門村(読み)にしみかどむら

日本歴史地名大系 「西御門村」の解説

西御門村
にしみかどむら

[現在地名]郡家町西御門

久能寺くのうじ村の東方、八東はつとう川北岸の沖積地に立地。若桜わかさ往来が通り、本集落のほかに茶屋ちやや土居がある。対岸の郡家村(現船岡町)へは船渡しであった(因幡志)。当村はもと小島こじま村といったが、正慶年中(一三三二―三四)後醍醐天皇が当地円入えんにゆう寺に潜幸、そのとき諾冊なぎなみ神社社殿を造営し、社頭を修造した小島郷士竹内弥七郎定勝の功を賞して西御門村と改号するよう勅命が下されたと伝える(因幡志)。年月日未詳の文書目録渡状(大山寺所蔵文書)に「西御門御寄進状 一通」とみえ、当地の寄進状が尊澄より法明院に渡されており、当地に大山領があった。藩政期の拝領高は二九八石余。本免六ツ四分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高四〇〇石、竈数五六。「因幡志」では家数六〇。産土神は山影やまかげ(山蔭)大明神で、ほかに疱瘡神を祀る。


西御門村
にしみかどむら

[現在地名]佐倉市西御門

七曲ななまがり村の南、弥富やとみ川左岸に位置。根古谷ねごや城跡(現八街市)の西側に接し、西の屋敷(御門)の意味から村名となったとみられる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に塩古しおこ肩書して村名がみえ、高一二七石余、佐倉藩領で、以後幕末まで同じ。享保八年(一七二三)の村明細帳(佐倉市保管文書)には村高の一二七石余は天正一九年(一五九一)検地で決定されたと伝えられてきたが、一二石余は地不足と記す。佐倉藩有林として岡田山に四町六反余の「椚そだ御林」、京ノ山に九反余の「そだ御林」、新林に一町四反余の「松御林」があった。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚でも高一二七石余、夫役永三八一文余・林下刈銭永一貫三〇文・茶園代永一〇〇文・百姓山銭鐚二貫一六四文。


西御門村
にしみかどむら

[現在地名]鎌倉市西御門一―二丁目

鶴岡八幡宮の東北側の谷一帯に所在し、東は二階堂にかいどう村、西・南は雪下ゆきのした村、北は山之内やまのうち村に接する。源頼朝の開いた大倉おおくら幕府の西門付近にあったところからその名が起こった。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)一月五日条に、捕らえられた平時実が美濃藤次安平の西御門の家にいたとみえる。大倉の幕府の間近だっただけに、三浦義村以来の三浦氏の屋敷(同書元仁元年九月五日条など)以下有力御家人の居館があったらしい。建保元年(一二一三)五月、和田合戦の終わったあと、将軍実朝は西御門に幕を張り、負傷した武士一八八人を召集めて実検を加えた後、それぞれに勲功の浅深を尋ね聞いた(同書同月四日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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